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迷わぬ羊#3 「ひつじが三匹」

 子どもの頃、おもちゃを買ってほしくて泣いてみせたことがある。

 ていうか、多くの子どもが経験したことだと思うし、なんならこれは「どこかの子どもがやってるのを見たことがあるからやってみた」に近い通過儀礼なのではなかろうか。

 なにはともあれ、戦隊モノの変身ベルト。装着するとかっこいい音が鳴ったりして、魅力的。それが欲しくて欲しくて、おもちゃ売り場で泣きじゃくって親を困らせて───きっかり3分。

 5歳の俺は、他のお客さんの迷惑になりすぎないタイミングを見計らって泣きやんだ。それに、親の機嫌もそろそろ本格的に悪くなる頃合いだと察していて。

 つまり、それ以上泣き続けても「誰にもウケないな」と感じたから、〝駄々をこねる〟というパフォーマンスをやめたのだ。

 と、まあ、このように、幼少期からずっとじぶんを俯瞰で見るのが得意だった。

 子どもが泣くことの重要性も理解していて(お利口すぎて泣かない子どもって、それはそれで奇妙に思われたりするから)、些細な反抗も、子どものイベントとしてこなしていた。

 他人から見られる自分を過剰なまでに意識してしまうので、「かわいい」「おもしろい」「やさしい」などのありきたりな賛辞をよく受け取る。

 だけど実際には「かわいげ」も「おもしろみ」も、まったく持ち合わせていないのだ。自分に得のない「やさしさ」に至っては、どこで手に入るスキルなのか教えてほしい。

 だからこそ、そういう人に惹かれてしまうのかもしれない。小林羊は無自覚に「可愛げ」「面白み」「優しさ」の三種の神器をフル装備しているあげく、じょうずに使いこなせないまま経験値を積んでしまった不器用な大人だ。

 彼女を初めて見た人の9割が、「美人だな」という浅はかな感想を抱くだろう。残りの1割は、大衆にウケるものを徹底的に批判したい側の陣営だから気にしなくてよい。これはどの界隈にも一定数存在する。

 小林さんはよく見ると美人なタイプじゃなくて、わかりやすく「わたし、自覚してます」というタイプの美人だ。スタイルが良くて、肌が白くて、顔立ちもはっきりしている。

 次に、彼女の輪郭だけを知っている人の7割が「性格きつそう」という、これまた子ども用プールのような水深の感想を抱く。まったくもって、浅すぎる。たしかに、論理的な物言いや変化の乏しい表情からは「舌打ちしながら脚を組みかえそう」という、一部の性癖にブッ刺さりそうな印象がつけられやすい。

 その感覚はよく分かるし、おまえたちはその浅いところでちゃぷちゃぷ水を掛け合いっこでもしていれば良い。小林さんの「可愛げ」「面白み」「優しさ」は、俺だけが知っている。

 こっちのプールは、あまりにも深くて溺れそう。それでもいいやって思ったから、俺は、躊躇なく飛び込んだのだ。

◾️

 金曜日の定時間際の俺には、外せない仕事がある。領収書をお願いするために経理部を訪ねることだ。こうして毎週、小林さんのフライデーナイトを強奪することに成功している。

 そのためには、週の後半は経理部に遊びに行くのを控えなければいけない。さいきん忙しくてずっと来れなかったんですほんと申し訳ないです許してください(今夜奢りますので)、というポーズを見せつける必要があるからだ。

 小林さん不足でふらついてきた身体で、自分のぶんの仕事がある程度片付いてきた金曜日の昼下がり。完璧なタイミングで、新たな仕事が追加された。

「ネロくん、これぜんぶコピーとっておくの、お願いしてもいい?」
「はい!すぐやります」

直属の上司である松葉まつば晴陽はるひという人は、水素のようにふわふわと軽そうな見かけによらず、リスクヘッジの申し子だ。万全の準備をして、念入りに失態を回避している。

 だから、不必要なまでにコピーを取ったり注意書きを記したりするのだけど、そういう、仕事の過分を当たり前にやれる人だ。そこは尊敬できるところ、でもあるのだけど。

「松葉さん、もしかして先週末も出勤しましたか?」
「ああ、うん、暇だったからね」

 さすがに、休んだほうがいいと思う。平然と答える彼は、残業が続いても弱音を吐くどころか何も変わらず飄々としているので、こちらが勝手に心配してしまう。コピーをとって、ほかほかの紙の温もりを感じながら話しかけた。

「しにますよ、そろそろ過労で、しにますよ」
「サラリーマン川柳」
「休日に没頭する趣味とかないんですか?」

 入社当時からお世話になっているものの、今日に至るまであまりお互いのプライベートな話をしたことがなかった気がする。松葉さんは決してクローズな人ではないのだけれど、どこまで踏み込んで良いのか分かりにくい。失礼にならない程度、控えめに訊ねてみる。

 そんな部下にも気を悪くした素振りは見せずに「ないねえ」と、己の空っぽぶりを口にした。俺もそこそこ虚無な人間だと思うけれど、松葉さんは虚無すぎる。

「強いて言うなら美少女アニメを観るくらいだけど、この娯楽がある限り俺は死なない」

 そして松葉さんは、日常系アニメに対して何故か絶対的な信頼を置いている。

 会社の中だけでも絶大な人気を誇るエリートイケメンは、ゆるいアニメを心の拠り所にして生きている。小林さんが同期である彼のことを〝根明の闇属性〟と分類していたけれど、その偏見はおそらく正しい。

 不審がる俺の視線に気づいたらしく、松葉さんがわざとらしいため息を吐く。

「ちょっと、まさかネロちゃん、美少女アニメをご覧になったことがない?非国民かよ」
「ないですね、人間って2種類に分けられるんですよ。それが、美少女アニメを観る人間と観ない人間です」
「あのね、今後人類は美少女アニメを観る人間だけになるよ」
「え!」
「なぜなら、美少女アニメを観ない人間は全員ストレスで死ぬから」
「えええ!」

 ピアニストのような華麗な指捌きでタイピングしながら、彼は「いっそ死ぬほど働いて、美少女に転生したい」としみじみ語った。松葉さん、あなたはほんとうに休んだほうが良い。

 それからなんとなく美少女の話になり、「ネロくんの好きな女の子のタイプは?」と質問されたので「かわいくて、おもしろくて、やさしい子が好きです」と答えた。純粋な本音の回答なのだけど、やはり成人した男の返答としては納得してもらえなかったらしい。

「おいおい、なんだそのぺらっぺらなプロフィール欄は」
「すべての道はローマに通ずるし、すべての性癖は〝かわいい、やさしい、おもしろい〟に通じるんです」
「性癖の最大公約数」

 松葉さんとの会話は、向こうが主導権をやんわりと握ってくれるのでとても円滑に進む。じょうずだなあ、と感心させられる。きっと何手も先読みして、こちらが踊りやすいように手のひらを差し出してくれるのだ。リスクヘッジの申し子は伊達じゃない。

 だけど、嫌だ。美少年にあらずんば人にあらずみたいな思想の小林さんが、なんだかんだで信頼しちゃうのも分かるから嫌だ。

 ていうか、小林さんがどこぞの美少年とさっくり結婚しやがったら俺は怒り狂うだろうけど、小林さんが美少年じゃない男と結婚などしてしまったら俺はシンプルに気が狂うと思う。

 美少年という絶対的な価値を持たずして小林さんを射止めたなんて、そんなの、もう─────うおえ、まって、しんどいからこの話はもう終わり。想像だけで吐血した。

 もともと、小林さんに俺を紹介してくれたのは松葉さんだ。

 入社当時の俺に、松葉さんは「経理部にお願いすることは多いだろうから、困ったら俺と同期の小林に頼むといいよ」と教えてくれた。そしてわざわざ経理部まで足を運んで、小林さんに会わせてくれたのだ。

「小林です、どうも」

 頭を下げて短い挨拶を返してくれた彼女は、感じが悪いとか愛想がないとかってわけではなく。ただ、自分の領域に踏み込ませないための線引きをきっちり見せつけてくれたので、なるほどそういう人か、と瞬時に察した。

 なんとなく居心地が悪いので、早く撤退したい。俺と松葉さんはわりと好印象で受け入れられることが多いので、こんなに冷たく心の扉を閉められるとは想像していなかった。

 松葉さんとは相当な仲良しなのかと思ってきたら、そうでもなさそうだし。しかし、この空気に慣れているらしい我が上司は平然と絡んでいる。

「ネロちゃんっていうの、めっちゃかわいくない? コヒツジ、かわいー男の子すきじゃん?」
「かわいーものは誰だって好きでしょう」
「はは、真理だわ」

 会話をそばで聞きながら、これが、このふたりの空気なのだとすぐに理解した。嫌悪感を顕あらわにしているものの、小林さんも心底松葉さんを嫌っているわけではない。そのポーズをとることが、彼らのコミュニケーションなのだ。

 それと同時に、周囲を理解しすぎる自分が少し嫌になった。イチでジュウを知るということ、よく見えすぎるということは常に美徳とは限らない。

 松葉さんは意識したうえで、ずるい人。小林さんは無意識のうちに、ずるい人。

 松葉さんは、自分と小林さんが親しい仲であることをあらかじめ俺に見せつけた。彼はこうやって静かに彼女の周りを排除しているのだろう。

 一方で小林さんは、俺のことを〝松葉さんが紹介してくれた後輩〟として見るようになる。俺と接するたびに、松葉さんというフィルターを通すのだ。

「ネロちゃん、俺にも好きな女の子のタイプ聞いてよ」

 現実の松葉さんに話しかけられて、脳内トリップから引き戻された。入社当時なんて、もう何年も前のことだ。小林さんはおそらく覚えていない。松葉さんは覚えてるかも。

 頭はお留守でも手は動いていたらしく、仕事は少し進んでいた。なんとなくラッキーな気分になりながら、会話に戻る。

「あーすみません気が利かなかったですね、松葉さんはどういう女の子が好きなんですか?」
「まってね、考える」
「聞かなきゃよかったです」
「なに考えてるのか分かんない子が好きかな」
「松葉さんが分からなかったら、たぶんその子は何も考えてないですよ」

 そんな会話をしながら、そういえば松葉さんから恋人の話なんかを聞いたことがないなあと思い出した。

 もともとプライベートを明かさない(本人曰く、話すほどのことが何もないらしい)人だけど、もう何年もいっしょに働いていて、その手の話題はとくに踏み込んだことがない。

 小林さんのように露骨に白線を引かなくても、大人になるとなんとなく〝線の向こう側〟がわかるようになる。分からないと、いけないし。松葉さんの線引きは曖昧で、だからこそ、こちらは無闇に踏み込んで良いものかと迷ってしまう。うちの上司ってものすごく優しいのだけど、なんかどこかに地雷持ってそうだし。

 思わず怪しんじゃうくらい、人が出来すぎてる松葉さんは「まあ、かわいいって思っちゃえば、どうでもよくなっちゃうんだけどね」と添えた。ほらね、こういうところだよ。

 そのひとことは、特定の誰かを思い浮かべてのものかもしれないし、そうでないのかもしれない。あるいはアニメの美少女キャラについて、かもしれない。でも、そこまでは聞けないな。

「ネロちゃんはかわいーけど、腹黒いからヤだな」
「えええ、僕、腹黒いですか?初めて言われました」
「嘘つけよ」
「小林さんには〝天使〟って言われてます」
「それは圧倒的にコヒツジが悪い」

 こちらに視線も投げずに仕事を進めるまま、苦笑を漏らす松葉さん。かと思えば、いきなり顔を上げてこちらをまっすぐ射抜いてきたので、ばっちり視線が絡んでしまって心臓がどきんと鳴った。

「でも、察しが良いし頭の回転も速いし、どこに行っても可愛がられるし、ネロちゃんは仕事のパートナーとして最高よ。いつもありがとね」
「っま、松葉さんてば、、!」
「おうよ、抱いてやろうか」
「ちょ、まって、松葉さんってば、、!」

 茶番にしちゃったけど、ふつうに嬉しくなったのは俺だけの秘密だ。あーもう、ヒトタラシめ。

 それから仕事を進めてしばらく経ち、松葉さんは外出する予定があるらしいのでそのまま帰宅してもらうことにした。放っておくと死んじゃいそうだし。

「うっわどうしよ、これ、経理部に提出するの忘れてた!締め切り先週だったのに〜!」

 そして、営業部の柱である松葉さんがいなくなった後に、こういう些細な事件は起こるのだ。コント入りみたいな状況説明をして頭を抱える女性社員に、同僚が作業を止めてため息を吐いた。

「小林さんに出すやつ? 絶対キレられるじゃん」
「羽野さんじゃだめかな」
「でも、羽野さんは絶対に小林さんに告げ口するからどうせばれるでしょ」
「うあああ、怒られたくない、、」

 経理部の小林さん、そんなに怒らないと思うけど。ふたりの会話を聞きながら、笑いそうになる。

 まあ、彼女は他部署の人たちからは恐れられているので仕方ない。本人もそれを望んでいるし。なめられるよりいいわ、と言っていた。

 それに、彼女たちの目の付け所はなかなか鋭い。わざとらしく告げ口をすることはないだろうけど、「この処理やり方わからなくて〜」とか言って間接的に小林さんに処理させる。それが羽野さんだ。

 いつもなら、失敗しそうなところには一切関わらずに仕事を進める俺だけど、たまには親切でも売っておくかという前向きな気分になったので控えめに手を上げた。

「僕も小林さんに頼まなきゃいけない書類があるので、まとめてお願いしておきましょうか?」

 そう申し出ると、大袈裟に頭を抱えていた彼女がこちらにがばっと顔を向けた。男女問わず快活な人間が多い部署だ。俺はそうでもないけれど。

「え!道枝くん?!いやいや、さすがに申し訳ないよ」
「どうせ行くので、ぜんぜんいいですよ」
「ほんと、、?!ごめんね、ありがとう!あとで奢るから、好きな飲み物おしえてね」
「ふふ、気にしなくていいですって」
「あああ、かわいい!天使すぎるよ〜!ありがとううう」

 松葉さんなら、教えなくとも部下の好きな飲み物くらい把握してるだろうな。そんな皮肉を思いついた直後、松葉さんはこんな初歩的なミスしないよな、とさらにヤなことを考えてしまった。

 渡された書類を受け取って、「大丈夫ですよ」の意で微笑むと、先輩は「っく、くあいい、」と悶絶してくれた。

 まあ、俺、遠回りに言うけどね。俺のミスじゃなくて〝これは同僚の失敗を庇ってます〟って。小林さんには、仕事のできない後輩だなんてぜったいに思われたくないもん。

 まあ、でも、結果的に直接怒られないで済むんだからいいでしょ? 他人に仕事を頼むのってそういうことよ。

 そうして定時が迫る頃、だいぶ浮かれた足取りで経理部に向かう。

 金曜日の定時間際に仕事を押し付けてくる後輩ってこの世で最も最悪な人種かもしれないけれど、そうでもしないと、小林さんのフライデーナイトを死守できないので仕方ない。

 なんなら俺は忘れないように、16時40分に無音のアラームをセットしている。だいぶ昔に[金曜16:40〜@経理部]で、スマホにスケジュールを設定しておいた。

 そんなわけで、小林さんに会えるのを楽しみにしていたというのに─────

「小林さん、偉い人に呼ばれたみたい。道枝くんが提出に来たら代わりに受け取っておいて、って言伝ことづてされてるよ」

 ───ひーつーじーさん!!!!!!!
 
 心の中で、叫ぶように呼んでやった。なんとか笑顔は保っているけど、もしかしたら引き攣ってる。目の前で座っている羽野さんが、俺から書類を受け取ろうと仕事の手を止めてくれた。

 あーあ、なんか、渡したくない。この瞬間のために小林さん断ちしてたのに、どうせ会えないなら、もっと早くに来ておけばよかった。ちょー萎えたわ、まったく。

「遅くなってすみませんとだけ伝えてください」
「他にはいいの?」
「詳細は後ほど僕から小林さんに直接連絡するので大丈夫です、よろしくお願いします」
「わかった、しっかり渡しておきます」

 俺はあまり人から人への伝言を信頼していないので、自分から丁寧にメッセージを飛ばすほうがいい。間に入る人間は、少なければ少ないほど良いと思っている。

 それに、羽野さんってなんか信頼できないし。うっかり伝えそびれるようなありきたりな失態は犯さなそうだけど、〝わざと〟伝え忘れるってことはやりそう。いや、完全なる偏見だけど。

 小林さんのいないここに用はないので挨拶して早々と帰ろうとすれば、受け取ってくれた書類を小林さんのデスクに置きながら羽野さんが話しかけてきた。

「道枝くんってお酒飲めるんだっけ?」
「まあ、あんまり強くないですが」
「かわいいなあ、いっしょに飲もうよ」
「是非、いつか」

 明日はくるけど、いつかはこない。それを知りながら、俺は控えめに微笑んで言葉を返す。それから、俺はお酒に強くないものの学生時代から含めても大失敗を犯したことは一度もない。朝起きたら女の人の家だった、とかはあるけど、これはほぼ確信犯だし。

 自分を俯瞰で見てしまう癖があるので、ああこれ以上酔うとみっともなくなるな、と冷静になってしまって烏龍茶を頼んでしまう。だから、小林さんとお酒を飲んでも何かをやらかしたことはなかったし、アルコールに弱いながらも自分への信頼があった。

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