見出し画像

迷わぬ羊#4 「ひつじが四匹」

 私と道枝くんが〝いつもの〟と呼ぶ居酒屋さんは、なんてことないチェーン店だ。料金が均一、そこそこの味とそこそこの接客、ただしBGMの選曲が極上のお店。つねに安定したクオリティを提供してくれるので、毎週ここを選んでしまう。

 先日、彼から詫びを入れるメールが届いた。提出遅れの謝罪とともに、ご馳走するので飲みましょう、と。

 今日も天井からはボーカロイドの機械的な歌声がきこえてくるし、その歌詞は泣きたくなるくらいに最高だ。

 ずっと、刺すような棘を抱いて生きている。

 手放したらもっと生きやすくなるのだろうけど、いちど手放したらもう二度とそれを抱き締めることはできない気がしている。やさしい自己防衛だけが、私を肯定してくれる気がした。

「僕、この曲すきなんですよね」

 ハイボールとレモンサワー、夕食の邪魔にならないお酒を飲み終えた。だけど烏龍茶にはまだ早い、そんな夜の中間地点。唐突に、道枝くんが呟きを落とす。唐突だけど、私も同じ曲に聴き入っていたわけだから、やっぱり唐突じゃない。

 うん、きっと好きだと思ったよ。彼とは、音楽の趣味も近いような気がしていた。笑い終わるタイミングが合う私たちは、したがって、感性の点aが近いところに置かれている。

「私も、とても好き」

 ほろ酔いのふたりで、サビの部分をふざけて口遊んでみる。正しくとれた音程と、わざとらしくない歌い方が道枝くんらしくて笑ってしまった。

 それと同時に歌詞の棘がまっすぐ刺さって、心臓の奥が痺れた。同じように感じてくれたらしい彼が「僕も新宿前で死にたいです」とおかしなことを言う。

 道枝くんの膨らんだ涙袋のすぐ下がじんわりと桃色に染まっている。長い睫毛がとろけるように伏せられて、頰に影を作っていた。すっと通った鼻筋と、酔いが緩めた半開きのくちびるが色っぽい。

 好みど真ん中を突いてくる綺麗な顔立ちにぼんやり見惚れていると、彼が声のボリュームをふたつ下げて、片手を添えながらこそこそと囁いた。

「あのですね、これ、だいぶネタバレになっちゃうんですけど─────ひとって、みんなしぬんですよ」

 自慢げに人生のオチを披露する道枝くんに、どんな美貌よりもこういうところが彼のいちばんの魅力だなあとしみじみ思う。

「人生あるある、しにがち」
「あるあるなのに誰も経験談を語れない、それが〝しぬ〟です」

 今週はとても疲れたせいなのか、アルコールがよく回る。血液が流れる体の端っこまで巡り巡ってゆくような感覚のまま、思いついたことを言う。

「美少年も、しぬ」
「美少年は短命ですからね」
「美少年の最大の美徳は、期間限定であることだ。美少年よ永遠にあれと願う反面、その儚さこそが愛おしいという最大のジレンマよ」
「いつまでも、あると思うな、親と美少年」

 それからふたりでちょっと笑って、ふたりで同時に笑いやむ。いつのまにかBGMはヒップホップになっていたけれど、これもこれでいいかんじ。

「初めて僕とお酒を飲んだ時も、小林さんは美少年について熱弁していました」
「天使が降臨してハイになってしまった」
「男の人が苦手なのに美少年は好きなんですか」
「美少年は無害でしょ、美少年とは概念を楽しむものだから」
「僕は概念じゃないですよ、ここに存在しています」

 花と美少年は、触れるものじゃない。愛でて楽しむものである。取らぬ狸の皮算用と言うけれど、あのね、私の場合はあえて取らないだけ。取ることを夢見てるときの方が幸せで、取った後の現実はそれなりに不幸だったりするから。

 たとえば、無垢な天使だと信じていた子が、じつのところはすっかり乱れた性生活を送っていたり、なんなら私の嫌いな〝THE・男〟だったっていう可能性もある。ていうか経験上、そっちの可能性のほうが高い。

 だから、美少年は恋人や友人にするのではなく、あくまで鑑賞用に留めておくのが正しい使用方法なのだ。捕らえぬ天使の羽算用とは、このことよ。

 どうせなら、好きな人の好きな側面しか知りたくない。ご都合主義者のわがままだけど、これもやさしい自己防衛なのだ。

「きょう、仕事で嫌だなあって思っちゃったこと話してもいい?」

 そういえば、おじさんは、くだらないことばっかり言っても自分がそのコミュニティで許されることを実感したくて、オヤジギャグを連発しちゃうらしい。

 誰のことも傷つけずに承認欲求と自己肯定感を得ようとしてるの、えらいじゃん。許してあげなよ、社会。

 けっきょく私が今から話そうとしていることの終着点は、同様の理由によるものだ。いつもありのままの自分を許されたいと願っている。そのくせ、自分に非があることを認められず、相手の些細な悪を許してあげられないのだから困ったものだ。

 期待通り、道枝くんは「どうぞ」と短く続きを促してくれた。話し上手は聞き上手というけれど、彼はまさにそのひとだ。

「私、わりと綺麗好きだから、書類の断捨離とか資料倉庫の整頓とかよくやってるのね」
「知ってます、外部の清掃の方が手を出しにくい領域の掃除は、ほぼすべて小林さんのおかげで整えられていると言っても過言じゃないですよね」
「ありがとう、天使」
「いえ、こちらこそ。それで、何があったんですか?」

 それに、いつも私を肯定してくれる。私が弱っているときほど、ずるい優しさは顕著だ。よくない上司になってるなあと客観的には考えられるのだけど、ついつい甘えてしまうのだから、もうだめだ。道枝くんはたぶんダメ女製造機。

「あくまで、言っておくけど、別に私は『掃除が好きだからやってる』ってわけじゃないのね。なんなら嫌いだし、わざわざ自分の業務とはまったく別の業務でご奉仕する義務なんかないと思ってるわけ」
「ていうか、そもそも仕事量もだいぶ多めに頑張ってくれていますからね」
「そう!なの!でも、誰かが片付けないと汚いままだし、それが嫌だから仕方なくやってるってわけね?これを大前提として心に刻み込んで、忘れないように刺青掘って聞いてほしいのだけど、」

じょうずに持ち上げつつ相槌を打ってくれる優秀な後輩に加え、体内のアルコール濃度も高まってきて、気持ちがよくなってくる。老廃物を吐き出すように、ふやけた脳みそで言葉の積み木を組み立ていった。

「まずみんな、私が掃除をすることが当たり前だと思い込んでいて感謝がなくなってるの。まあ、ここまでは許す。だけど、『どうせ小林さんが片付けてくれるからぐちゃぐちゃにしちゃってもいいや』は違くない?って思うんだけど、どう?」

「めちゃ滑舌が良いですね」
「そうです、私は滑舌が良いですよ。パッペパッペパペピョパペピョン」
「うわ、僕の知らない早口言葉」
「美少年よ、全知全能にでもなったつもりか?」
「すみません、無知を誇ってしまいました。続けてください」

 ああ、もう、なんだか楽しくなってきた。酔っ払いに成り下がった私は、感情のままに話を続ける。お喋りによって渇いた口を潤すようにさらにアルコールを流し込めば、もうすっかり酩酊の星が散った。

「ここで問題です。今日、上司の一言でその怒りゲージが急上昇しました。さて、その一言とは、次のうちどれでしょう」

 いきなり流れを変えた私に、「え、クイズなの?」と道枝くんが慌てる様子を見て、なんだか嬉しくなったりする。きみは、どうしてこんなにかわいいの。

「A、私が勝手に片付けると自分が置いた書類の場所が分からなくなると言われた」
「うわあ、そいつが片付ければいいのにですね」
「B、さいきん資料倉庫ぐちゃぐちゃじゃない?小林さんやらないの?と言われた」
「はうあ〜!想像だけで、セクハラ紛いなことをねちねち言ってくるクソ上司が浮かびました。誰とかじゃないですけど、なんか浮かびました」
「C、断捨離のミスで大事な書類を間違えて捨ててしまい怒られた」
「まず小林さんがその手のミスをするのって珍しいし、もししてたらたぶん今頃落ち込みすぎてハイボールを頭からかぶって溺死しようとしてるはずなので、これはないですね」

 選択肢ひとつひとつに説明を加えてくれた後、「うーん」と首を捻って答えを考える道枝くん。10秒くらい悩んでみせてから、きれいな人差し指を立てて再び口を開いた。

「つまり、答えはD!小林さんが好きな時に掃除していいよ、と言われた!」
「大!正!解!」

 100点満点の回答にふたりとも満足して、同時にかつんとジョッキを合わせる。いつの間にか道枝くんのお供が烏龍茶になっていたことに、いま気づいた。だけど、そんなの関係ない。きょうは飲みたい気分だし。

 たまには許せ、許してほしいことばっかりだ。

「これ、ちょうど嫌じゃない?悪気がないの分かってるけど、腑に落ちないでしょ?腑に落ちないオブザイヤーでしょ?」
「むしろ、良かれと思ってのかんじが嫌ですね。地獄への道は善意で舗装されているとはよくぞ言ったものです」
「〝好きなとき〟の時点でイラッときてるのに、その後に〝掃除していいよ〟が続くのよ?最悪の連携技」
「今頃その人はヤなことしちゃったという反省もなく美味しいお酒を飲んでますよ、なんなら良いことした気分でいますよ」
「わーむかつく!掃除に好きな時なんかないから!業務の隙間を縫ってるの!あと、いちいち許可してくるなよばあか」

 雪崩のように、悪口がどどどどばっと落ちてくる。こういうときの私たちはやたらと共感能力が高いので、一致団結して悪に染まれるのだ。

 道枝くんのこういうところが好きだ。でも、こういうところは美少年としては失格な気もする。

 あれ、もしかして? 道枝くんって、美少年じゃないのでは?

「え、なんか、」

 そんな裏切りの不信感を抱きかけた私のことを、きょとんと無垢な瞳で見つめてくる道枝くん。こちらがその淡い色素の瞳が澄み切っていたのを確認して、やっぱり彼は正真正銘の美少年だと考えを改めていると。

 止めた言葉の続きを、さらっと告げた。

「小林さんの〝ばあか〟って、かわいいですね?」
「ば、ばあか」
「アザース」

 道枝くんが適当なことを言うせいで、アルコールに支配されかけた頭の裏側がちりちりと熱く焦げる。するとなぜか私のほうが、いっきに気分が落ち込んできて項垂れてしまった。感情の起伏がいつもよりずっと激しい。

「私の性格がわるいのかなあ」

 思わずネガティブを呟くと、道枝くんは横目にスマホを操作しながら私に続きを促した。なんか、そういうのも気に食わない。だれに返信してるんだろ。

「もし悪かったら直すんですか?」
「どこがどう悪いのか納得できたら、直す。だって、倉庫の整理整頓をせずに性格良い人と、倉庫の整理整頓をしてくれる性格の悪い人だったら、後者のほうが会社にとってのプラスでしょ」
「なるほど、簡単には直らなそうですね」

 そこでスマホを手放したので、私はちょっと嬉しくなった。よそ見しないで、話に集中してほしい。だって私は上司だぞ。

 おしぼりで白ウサギを作って、いじけてみせた。あまり手先が器用じゃないのだけど、これだけは作れる。上司の手遊びを見つけた道枝くんは、すぐにするすると器用に薔薇を作ってきた。いびつなウサギと並んだ、きれいなバラ。ふうん、やるじゃん。

 ふと、白薔薇の花言葉を思い浮かべてみる。純潔、私はあなたにふさわしい、深い尊敬。

「直した方がいいと思う?」
「いーえ、まったく」
「あまいね」
「僕はあまいですよ、どんなあなたも許します」

 相手の欲しい言葉を即座に見つけてしまうのは、天性の才能なのだろうか。これ以上ゆるしてもらったら、甘やかされすぎてだめになりそうだ。

 だめになっちゃっても、良いのでは?だめになっちゃったら、おわりです。天使と悪魔が話しかけてくる。このままだと、ラップバトルでディスり合いが始まりそうだ。韻を踏むのが面倒なので、頭の裏側から追い払う。

 どうやら、おさけを飲みすぎたみたい。

 ふにゃふにゃして、なんだかちょっと悲しくなって、ノスタルジックな心地になって、ああ、私、だいぶ酔っ払ってるっぽい。いや、だめだ、完全に酔っている。あしたの二日酔いはひどそうだけれど、いまの時点の幸福度はそこそこ高い。

「ほーら、帰りますよ」

 道枝くんの呆れたような声を、あたまの遠くで聞く。

「さっきタクシー呼んでおきました」

 そこで、彼がスマホを触っていた理由に辿り着いた。そういうことなら、しかたない。

「お会計は?」
「済です」
「あとで、はらうし」
「はいはい」

  あしらうような口調の道枝くんがなんとなく嫌だったので睨みつけると「理不尽すぎ」と深いため息がお見舞いされた。

「酔っちゃった」
「えええ、なに、あざといモードですか」
「きらい?」
「なにが?」
「あざといひと」
「あざといひとは嫌いだけど、あざとい小林さんに限っては好きです」

 ワンランク上のあざといせりふを披露した道枝くんが、小さく苦笑する。桜色の無垢なくちびるから漏れる吐息が艶めいた。いいとわるいの境界線があやふやになっていく。

 だって、このまま帰ってもまたひとり。誰かと共同生活なんて苦痛でしにたくなりそうだけど、ふと脳内を過ぎる孤独が生活から色を奪う。

 おひとりさまを楽しめる人の独り身と、ただ、おふたりぐみを楽しめない人の消去法な独り身は、意味が全然ちがってくる。後者の先に見える未来は、はたして貴族の道なのだろうか。

 恋愛をがんばる努力もしてないくせに、ひとりで生きていく覚悟が決められない迷える子羊。そんな私を、いつになく熱っぽい視線がまっすぐ射抜いて。

「────うち、来ます?」

 美少年が、夜に透過した。

「歩けますか?」

 星が見えない空。お店の外で待っていたタクシー。華奢だと思っていたのに案外しっかりした腕が、暗闇から守るように私を抱き寄せる。

 乗り込むときに、慣れたように差し出してくれたきれいな右手。まるで王子様みたいだねとロマンチックを茶化したいのに、おふざけは夜の神秘に溶けてしまった。

 酔っ払いの上司をお世話するためだけにしては、窮屈なほどに詰められた距離感。嗅いだことのある清潔なやさしい香りに、初めて知った彼自身の体温が混ざる。

 運転手さんに告げられた行き先は、道枝寧路の住所その場所だ。よく喋るはずの私たちなのに、緩やかな沈黙が車内の空気を埋め尽くしていた。

「ほんとうに、いいんですか?」

 なにが、と聞き返すほど野暮じゃない。それに、いいわけないと分かっていた。

 男性の家にお邪魔することの意味を考えないほど、ばかになっちゃう酔い方などできるはずがない。いつもわがままな理性と理論で雁字搦めになっていて、自由な身動きがとれずにいる。

 道枝くんとの間にきっちり引いていた一線を越えるなんて、間違いなくいけないことだ。私の主義にも完全に反している。

 だけど、越えてしまいたい。大人だもの。いけないこと、してもいいよね?

 決定打を押せないずるい私にいよいよ痺れを切らしたかのごとく、低体温な指先が黒髪をすべる。ただ頭を撫でただけのそれが、どうしようもなく艶かしい仕草だった。うっとり惚ほうける私を笑う声が、そそのかすように甘ったるく囁いた。

「わかりました、僕が、無理やり攫います」
「さらう?」
「そう、羊さんは何も悪くない。親切なふりをした悪い男が、酔ってしまったあなたを連れ去っただけです」

 目的地のマンション前で、ゆっくりと停車したタクシー。お客さん、と声をかけられると、道枝くんがすっとクレジットカードを渡す。どこまでも私を甘やかすその男が、無垢な美少年であるはずもなかったのだ。

「いいとこ、住んでるね」
「そうですかね?家賃以外にお金を使うところが、あまりなくて」

 よろける千鳥足で進みながら、何かが迫ってくるような感覚を覚えていた。戻れないところに来てしまうまでのタイムリミット。初めて訪れる小綺麗なマンションの廊下に、緊張が背筋をなぞる。酩酊していたはずの脳が冷えていく。

 明らかに、自分らしくない行動をとっていた。むしろ、その場限りのテンションなんて、私が最も嫌う類の行動だ。だけど、私の意思じゃないし。これは、ぜんぶ、道枝くんのせい。私は何も悪くない。

「ここです、どうぞ」
「お邪魔、します」
「ふふ、緊張してますか?」
「して、る、ます」

 道枝くんに支えられながら辿り着いたのは、マンションのワンルーム。そこそこ片付いていて、程よく生活感がある。

 きちんと手入れされた革靴の隣に、ふたまわり小さなパンプスを並べた。履かれていない男性靴を見たのが久しぶりだったし、その横にじぶんのハイヒールが置かれているのが不思議に思える。

 いきなり自宅に女性が訪れても慌てる様子のない道枝くんに、信頼と裏切りを同時に感じた。

「お風呂沸かしますね。なにか飲みます?」
「おかまい、なく」
「そんなに怯えなくてだいじょうぶですよ」

 わかってる、わかってるのだけど。目の前でスーツを脱いでいく美青年は、私のよく知ってる道枝くんとは別人のようで。

 こういうとき、いにしえの文学作品であればThere must be a full moon out there(外は満月に違いない)という句が用いられるだろう。だけどいまは現代で、ここは文学作品でもなくて、私はさっきのタクシーの中でうっかり三日月を見つけていた。

 満月は人を狂わせるかもしれないが、おそろしいことに、人が狂うのは満月だけのせいではないらしい。

 タクシーから降りたこと、悪い男のせいにした。自分の手でパンプスを脱いだこと、アルコールのせいにした。責任から逃れるのがじょうずになって、こんなのまるで、大人みたいだ。

 感情がぐちゃぐちゃになって、もうすぐ、この瞬間のを後悔する。数年かけて築いてきた関係を壊すのは、ていねいに膨らませた風船ガムを割るよりも容易いと知った。

 私を傷つけるものなんか、ぜんぶが嫌いだと叫んでいた。男の人はやっぱり嫌だなって、きょう、再確認したばかりじゃないか。

「それとも、このまま寝ちゃいましょうか」

 含みを持たせた言葉の選択でこちらを試すように覗き込む道枝くんは、どこからどう見ても男の人。ほっそりした首筋の喉仏も、きれいな白い手の甲に浮かぶ血管の筋も、ほんのり香る癖のない柔軟剤も。

 私が目を逸らしていただけで、道枝くんは当たり前にひとりの大人だ。美しいけど、少年じゃない。

 あまりにも慣れた手つきで私に触れるから、思わず、抱いてしまった違和感を口にした。

「ほんとは、女の子が苦手じゃないでしょう」

 これまで、道枝くんを男性として意識せずにいられたのは、このおかげだった。男性は嫌だけど道枝くんが嫌じゃないのは、彼だけは違うと、彼だけは、私と同じ心の政党を支持していて、同じ心の思想を掲げていると思っていたからだ。

 だけど、どうやら違ったらしい。

 困ったように睫毛を伏せて、ソファに腰を下ろす。その様子を眺めていると、やさしく腕を引かれてすぐ隣に座らされた。何度も経験したことのある動作なのだろうと考えてしまって、なんだか嫌だった。

「苦手といえば苦手です。でも、純真無垢な美少年ではないですね」
「私のこと、騙していたの?」
「誰にだってあるでしょう。偽りってほどじゃないけれど、自分の中にある一部分を拡張した、他者に見せるための人格です」

 自分を偽っていると断罪するには、あまりにも大袈裟だろう。相手が嫌いであろう部分まで晒していく必要はないし、会社の上司相手にすべてを見せる義理もない。

 もともと良い印象を与えているのに、わざわざ悪い印象に塗り替えるのなんて無意味にも程がある。

「小林さんが、初めに言ったんです。道枝くんのような美少年が大好物だって」
「だからって、そんな、」
「小林さんが悪いって言ってるんじゃないですよ。嬉しかった僕が勝手に、小林さんから与えられた僕の第一印象になるべく擦り寄っていこうとしていただけ」

 こんなときでさえも、くるしいほどに共感した。他人から押し付けられた印象を意識しすぎて、それに合わせようと努力してしまう。したがって、第一印象への擦り寄りが行われている。

 まさに私が、大声で唱えてきた説そのものだ。

「ありのままの俺を愛せ、だなんて。そんな傲慢なことは考えていませんよ」
「私と違って?」
「そう、小林さんと違って。でも僕は、ありのままの傲慢な小林さんを愛おしいって思えます」
「奉仕の精神なの?愛の勝利?」
「いいえ、愛とはつねに有償です」

 恋人のような距離感で、恋人らしくない言葉を落とす道枝くん。過去の恋人に責められた際にも、このように淡々と理論で詰めていったに違いない。

 道枝くんには、25年分の過去がある。彼は15歳の美少年じゃないし、それなりの恋愛経験だって重ねてきたはずだ。そんなの気付きたくなかったし、知りたくなかった。

 捕らえた天使の背中には、ほらね、羽なんか生えていない。現実は、ゆるやかに残酷だ。

「私のこと、傷つけたくて家に呼んだの?」
「なんてこと言うんですか、甘やかしたいの一択です」
「心を折らせるところからギプス巻いて手当てをするまで、ぜんぶセルフでやるんだね」
「あなたの感情すべて、僕だけが揺さぶりたいのでね」

 ほとんど酔いが醒めた頭ではわずかな理性が邪魔するせいで、空洞な理屈も返すことができずにいる。そんな私を、道枝くんが嘲笑う。

「がっかりしてもいいですよ」

 こちらの不完全な気持ちを掬うように、私の顎に右手をかけて、くい、ほんのわずかに持ち上げた。

「僕なんて、あなたの好みに染まりたいだけ。浅はかな大人の男です」

 至近距離での囁きを合図にして、ずるずると吸い寄せられるようにふたりでベッドに沈みこんだ。

 抵抗は、しようと思えばきっとできたけど、しようと思わなかったからできなかった。

 私の痛みは、私にしか分からない。交わる熱は、馴染まない。ふたりぶんの吐息は、まだ冷めない。

 うつくしい指先が、震えない。

 朝がくるよりも先に目が覚めた。

 しっとりと湿度のある素肌がそばにあって、自分の体温よりも少しだけ低いそれが心地いい。ふたりで分け合っていたやさしい触感の布団は、清潔な香りがする。それだけが、私の知っている道枝くんらしくて、無性に泣きたくなった。

 覗き込んだ寝顔は、当たり前に長い睫毛が下されていて宝石の瞳が隠されている。すっと通った高い鼻筋や半開きになった薄い唇はどこまでも美しい。眉毛の形まで綺麗で、そっと指でなぞってみた。

 カーテンの隙間から差し込む月光が、彼の寝顔を神秘的なものにしている。三日月のくせに。汚れや穢れを知らなそうな、きれいな寝顔。安らかな寝息。天使が深く眠っていることに安心して、私はそろりとベッドを抜け出した。

 脱ぎ捨てられた服たちをかき集めて、ささっと身なりを整える。なるべく音を立てないようにしたら、彼はほんとうに起きなかった。

 浮ついた心と裏腹に、外側の自分は意外にも冷静だ。何も言わずに帰るのは忍びない気もするけれど、顔を合わせるなんてできるはずもない。

 ほんの数時間前に私を激しく抱いていた男とは別人のような儚げな寝顔は、私の知っている道枝くんで間違いなかった。からだの奥に、他人の熱が残っている。

 二日酔いに襲われて、足元がぐらつく。朝が、もうすぐそこまで来ている。

 あまり注視しては失礼かなと思ったけれど、なんとなく目に入ってきた最新のゲーム機、ステッカーの貼られたパソコン。あまり飾り気がない、だけどそこそこ上質な成人男性の一人暮らし。

 モデルルームのような胡散臭さがなく、習慣として掃除や片付けがなされたふつうの部屋。

 ただ、ネクタイなどの小物で色味を加えることに定評がある道枝くんのファッションセンスは、どうやらよそ行きのものだったらしい。この部屋には無地無色が多くて、印象よりも男っぽかった。

 そんなワンルームを抜け出して、短い廊下を進めば、すぐに見慣れたパンプスが置いてある玄関だ。違和感のある女物のそれに足を差し込む。

 眠気と疲労とアルコールの残りで、意識がぼんやりと薄まっていた。意味がわからないけど、視界から朝帰りの匂いがする。

 お邪魔しました。

 声に出さずにつぶやいて、玄関を出た。最寄駅までを地図アプリで検索して、ちょうど始発に乗れそうだと確認する。意外にも慌てることなく、後輩社員と寝てしまったことを客観的に受け止めている自分がいた。

 昨日で見飽きたブラウスの袖が視界に入ってくる。2日目の服。

 あれ、お風呂入ったっけ?ふたりでシャワー浴びたのって、夢?でも、置かれていたボディソープの銘柄を何故だかはっきり覚えている。

 この現状、もしかして、いや、もしかせずとも────私、だいぶ、やらかしたのでは?

 すると、いつもより濃度の高い瞳に射抜かれた瞬間や生々しい感覚が思い出された。繊細な手つきや、吐息が混じった声。大切そうに、甘ったるく見遣る視線とか、急激に昨夜の映像が流れてくる。

 ひとりで歩きながら、顔が熱くなるのを感じた。だって、かわいい顔してエスっぽいとか、知らなかったし!あー!

 そして、私の脳みそよ!勝手に夜の道枝くんでハイライトを作るな!あーあーあーあー!!!

 とりあえず、帰ったら眠ろう。いや、頭と顔を洗ってなかったから、シャワーが先かも。不衛生なんてらしくないけど、さすがにすっぴんは見せられなかった。私、実はけっこう顔面変わるし。

 それに、ふたりでお風呂に入ったら、なんだか色っぽいムードになってしまって、えっと、言葉にできないけど、とりあえずそのときに見つけた天井の水滴の数は8だった。そういう記憶って、ほんとうになんなの?

 あと、道枝くんのお湯の設定温度はやや高めな42度。程よい筋肉が乗ったきれいな背中が、お湯に浸かっている部分までじんわりと桃色に染まっていたのは意識的に目に焼きつけた。

 水も滴るいい天使でした、ごちそうさまです。

 道枝くんの入社当時、彼を下衆な目で見ていた他の社員たちに舌打ちを鳴らし、天使を汚すな党の党首として立候補したはずだったのに。

 私の手によって、私の天使が穢されてしまった。

 道枝くんが未体験だったとは到底思えないけれど、幻想はあくまで幻想なわけで、私のなかの天使は昨日まで清らかなままだったのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?