迷わぬ羊#2 「ひつじが二匹」
第一印象は、最初の数秒間で決まります。
そんなことを言う奴こそ、自分の第一印象に気を使ったほうがよろしい。貴方は間違いなく若者たちに胡散臭いって思われてるからね。科学的にどうこうとか付け加えたらなおさら怪しげ。
ほら、言うでしょ。上司が部下を知るには三万年を要するが、部下が上司を知るには三秒で足りるって。
では、初対面の相手に良い印象を残すために我々どうしたらよいものか。
そこで、一切迷わぬ羊こと小林羊が全国の迷える子羊たちを救済したい。だから、あえて言わせてもらう。私たちは皆他人から与えられる、いや無理やり押し付けられた印象に影響されすぎているのではなかろうか。
ここまでの話で分かりきったことをよくもまあ恥ずかしくもなくべらべらと。小林も所詮つまらぬお局か。自分語りで気持ちよくなるな変態め。と野次を飛ばされるかもしれない。
だけど、まあまあお聞きなさい。私は貴方を救う者です。この議論に一石を投じてさしあげましょう。
我々は「他人から押し付けられた印象を意識しすぎるあまり、それに合わせようと努力してしまう」のではなかろうか! したがって「第一印象への擦り寄りが行われている」のではなかろうか! と!
「あらあら、コヒツジじゃん?おはよー」
「げ、おはようございます」
「オマエは月曜の朝からシケてるなー? クールビューティー極めてんの?」
月曜日の朝からそのテンションのほうがどう考えてもおかしいのでは? ステップを踏むような軽快さで通勤途中の私の隣に並んできたのは同期の松葉さんという男性社員だ。
小林羊という名前を略してコヒツジと呼んでくる唯一の人物。そもそも他人から親しげな愛称をつけられること自体が珍しいのに、私自身の印象と結びつかない愛らしい呼び名など彼以外に呼ぶ人はいない。
ちなみに松葉さんの第一印象はチャラい、である。次の印象は調子がよい、現時点での印象はヒップホップを聴いてそう、意外とプライベートの返信が遅そう、眠り浅そう、お子様舌かと思われるが意外と和食を好みそう。
印象って、言い換えるとただの偏見になるらしい。そして現時点の私は総合して、松葉さんに対して「根明だけど意外と闇属性」という複雑な偏見を抱いている。
「無視するなよー? 俺、質問してるじゃん? 質問には答えるのが筋ってものじゃん?」
「松葉さんの話し方だと全ての語尾にハテナマークが見えるのでどれが質問なのか判別しにくいです」
「でたでた屁理屈ちゃん、そういうときは全部に答えてくれればいいのよ」
「松葉さんのこと本当に苦手です」
この男に関しては男嫌いとかそういう次元にはもういなくて、シンプルに苦手だ。
こんなにも全面で「あなたが苦手です話しかけないでください」の看板を押し出しているというのに、意に介さずへらへらと絡んでくるあたりは害悪でしかない。決して空気が読めない人じゃないので完全なる確信犯だ。
「なんか、入社当時よりもクールビューティーに磨きがかかってない?」
「クールのほうですか? それともビューティーのほう?」
「両方だけど、特にビューティーかな」
「はあ」
「気をつけろ、その眼は人を凍らせるからな」
気障な台詞を吐いてみる松葉さんに引き気味の眼差しを送りつけると、彼は肩をすくめて首を振った。
松葉さんと私はどうやら同じ電車を使っているらしく、こうしてたまに通勤途中に出会すことがある。彼は営業部のエースなので、道枝くんの直属の先輩だ。いかにも広告会社の営業マンをしていそうだし、実際その通りなので彼は第一印象に擦り寄ってるに違いない。
かく言う私も同じだ。クールビューティー、気の強い美人、性格がきつそうなべっぴんさんと思われがちなのでそこに自ら寄せいにいく。
容姿や話し方からクールな印象を与えるらしいとは学生の頃すでに自覚していた。実際の中身はそれが全てではないけれど、できる限りそうあろうとしてしまう。
ビューティーに関しては何も言うまい。この部分が削除されてしまったら私は引退する覚悟でいる。ただのクールは冷蔵だ。美人でなければ許されがたい。
だからといって印象づけるときに大事なのは容姿ってだけでもない気がする。容姿が整っているっていうのはわりと主観的というか、まあ好みは人それぞれだし。
「そいえばコヒツジ、今日の飲み会くる?」
社員証を翳して出勤しながら、さらりととんでもないことを言い出す松葉さん。いや彼にとっては挨拶みたいなものだろうが、私にとっては背面飛びでも越えられないハードルだ。
そもそも、その手のイベントに誘われることが少ないので正しい断り方もよく分からない。しかし断らなければならないということはよく分かる。
「行きません、明日も仕事ですし」
「それはみんなそうだろ、顔だけ出せば?」
「私がお邪魔したらみなさん困ると思いますが」
「喜ぶ奴もいるよ」
ああ、こういうところが松葉さんだ。行きたくないって鉄の気持ちで言っている私を高温で熱してぐにゃんと曲げようとしてくる。営業マン、天職だろうな。個人主義の私も経理はなかなか向いていると思うのだが、この人ほどじゃない。
「飲み会のノリとかついていけないですよ」
「そんなオマエが来たら俺が喜ぶ」
「私が注文しただし巻き玉子だけ最後までお皿に残っていたら、帰宅の電車で泣きますよ」
「俺が最初にひとくち食べて『このだし巻きやべー! うめー! 黒毛和牛の卵で作ったんじゃねー?』って皆に宣伝してあげる」
黒毛和牛は卵産まないでしょと突っ込む私がそのまま会話に入れるようにというところまで道を整備してくれる。常に百点満点を叩きだすコミュニケーションはもはや不気味だ。
同時に新卒で入社してだいぶ月日が経つけれど、いまだに私は松葉さんの心の内側を知らない気がする。どの扉を開いても快く応接間に通される感覚なのだ。そのくせこちらのオートロックで施錠された玄関は躊躇なくノックしてきたりする。器用な図々しさが嫌いだ。松葉さんが女性だったとしても好きになれない。
「まあ、行きませんけどね」
時間をおいて飲み会を断ると、松葉さんは「残念」と天を仰いで見せた。ちっとも残念そうに見えないのだが、彼は感情全般が薄いのでこれが通常運転である。
あまりにも引き際が見事なので、もともと本気で私を誘っていたわけではなかったのかなと勘繰ってしまう。社交辞令だったのかしら。もしも私が「行きます」って答えたら、空気が読めずに困らせてしまったのだろうか。ああ、これだから難しい。
私は迷いたくないし迷っている姿を見せたくないので、もう二度と誘わないでいただきたい。
「羊、松葉、おはよう」
社内を歩いていると、松葉さんは顔が広いので多くの人に声をかけられる。その挨拶には毎回と言っていいほど称賛または感謝あるいはその両方が添えられていて、人望があるのだなあと再確認させられた。
そんななかで私にもラフな挨拶を繰り出してきたのは、我々ともうひとりの同期である女性社員だ。彼女はこちらに向かって歩いてきたため進むのは逆方向になる。三人ともそれぞれ部署が異なるのでなかなか揃って会えないせいか、思わず足を止めてしまった。
同期愛と呼べるほどの熱量はないけれど、私が社内でプライベートの連絡先を交換している数少ない人たちだ。
「おはよ、アラキレイ」
「おはよう、アラキレイ」
「ありがとう、それ守ってくれて」
松葉さん私がお決まりの挨拶をする。新木礼という名前の彼女を挨拶の時だけフルネームで呼ぶことにしているのだ。何故かというと会うたびに「あら、綺麗」って言っているみたいだから。
それに実物の新木レイも容姿だけならかなりお綺麗だ。いつもパンツスーツに身を包んでいるところも格好良くて洒落ている。美少年っぽい。
「新木、最近どう?」
「どうもない、そろそろ人生に飽きてきた」
「よく言うだろ? 人生とは死という名のアトラクションに並ぶ行列のことよ」
「いや、聞いたことないけど」
意味のない二人の会話を聞き流していると、ふと思い出したようにレイちゃんがよく知っている名前を出した。
「そういえばさっき道枝くんに会ったんだけど、あの子ほんと可愛いね」
道枝くんは松葉さんの直属の部下なので共通した話題の一つとなったらしい。ちなみに新人の道枝くんが松葉さんの下につくと決まった時、レイちゃんは「へえ、エロ」とコメントしていた。誰も追及はしなかった。
「わかる、俺のネロちゃんな」
「俺の? ネロちゃん? なにそれ萌えるな?」
「同期と後輩でエロ同人するなよ」
「まったく懐かない道枝くんを松葉が猫みたいに可愛がってるところまで見えた、道枝くん首輪が似合う」
「いろいろあるけど、せめて懐けよ」
道枝くんは下の名前が寧路なので、松葉さんは親しみを込めてネロと呼ぶ。猫というより犬、というよりもはや大型犬の飼い主の名前だ。まあ、でもドラマチックに人が死ぬ物語とかあの子は好きじゃないだろうな。
これは余談だけど、過去にレイちゃんは道枝くんに対して「合法的にショタを感じる」と発言していた。これだけで私と彼女の関係性は十分に伝わると思う。
「んじゃ、俺もそろそろ行くわ」
「道枝くんによろしく、使ってる歯磨き粉の種類きいておいて」
「新木はそろそろセクハラで訴えられるよ、香水じゃなくて歯磨き粉なのが余計に気持ち悪い」
「香水は外向けの香りじゃん、私は内側の道枝くんの香りを知りたい」
「知るな」
念のため繰り返すけどレイちゃんは美人だ。前述した「美人じゃなかったら許されない」を体現している。
三人ともそこで別れてそれぞれの職場に向かった。ひとりで歩きながら考えてみる。
レイちゃんは、本物。本物の美人で気が強くて周囲のことを気にしない。私のなりたい姿、偶像そのもののようにも思えてきた。
なんか私ってレイちゃんの二番煎じみたい? クールもビューティーも極めようとしてるけど、目指している時点で中途半端じゃない? レイちゃんくらいぶっ飛んだら、美人なのに勿体無いねなんて誰も言わない。むしろ美人でよかったねと言うだろう。
レイちゃんは、記事広告を書く業務をしている。PRする商品の体験レポートを書いたり、あまり関係なさそうなことを好き勝手やってウェブCM動画もどきを作ったりしている。そういったクリエイティブなところもレイちゃんを本物にさせている所以だ。いや、計算機を叩いてる私が偽物ってわけじゃないのだけれど、なんというか代わりがいくらでも居るというか。
他人から見られたい虚像の自分が歳を重ねるごとに立派になりすぎてしまっているのだ。中身が追いつかないところに来てしまった。理論の武装が強くなってはいるものの、インナーマッスルは貧弱なままだ。その脆い肉体をいつ攻撃されるのかと怯えている。
発展途中が好きだ。
その期間特有の尖りや無知、刹那的な儚さがどうしようもなく愛おしい。洗練されて大衆に馴染むようになってしまうと私の興味は薄れてしまう。
美少年はそこが素晴らしい。顔立ちの美しさよりもその清らかな少年性を重視している。
だから、道枝くんが女性を苦手としていると告白してくれたあの瞬間、彼こそが本物の美少年だと嬉しくなった。この子は私と同じだって。まだ大人になれないんだって。まだ、大人にならなくていいやって思ってるんだって。
そんな彼もいつの日か女性を認めることができるようになって、誰かひとりを選んで結婚するのだろう。断じて結婚が人生のゴールではないけれど、それは彼の「女性が苦手」という尖りに終止符を打つことになる。したがって彼は必然的に美少年を卒業するのだ。
「小林さん、計算合わないんですか?」
「え?」
「すっごく難しい顔してますよ、大丈夫ですか?」
隣の席で仕事をしている羽野さんが心配そうにこちらを覗き込んでいる。
勤務時間はまだ続くけど、すっかり集中力が途切れた頃。金額が合うかどうかの確認をしながらキーボードを打ち込んでいたら、思わず険しい表情になっていたようである。まさか、美少年哲学における持論を脳内で語っていたなど言えるはずもないので「大丈夫です」とだけ答えるにとどめた。
「悩み事とかあるんですか?」
勝手に休憩モードに突入したらしい羽野さんがイチゴのチョコレートを口に放り込みながら訊ねてきた。自由か。
羽野さんはたまにいる、なんでもマルチにこなせる要領が良いタイプの人種である。こうして勝手におやつタイムを作っても誰かに咎められることもない。いや、おそらく咎める人がいないときを見計らっているのだ。
しかも多くの社員に怖そうだと勝手に畏怖される私がわざわざ細かく部下を咎めたりしないことを把握しており、相手の本質をすぐに見抜くタイプ。ゆとりの権化。
さくさくと仕事をこなしてくれるので同僚としてはありがたいが、悩みを相談するほど信頼できる人ではない。むしろ本能的に深く関わり合いたくない。
だから迷わず「いや、ないですね」と短く答えた直後に、これって私の悪いところだな?と反省して「羽野さんは何か悩んでいるんですか?」と質問を返した。
羽野さんは27歳の女の子であり、広報部から異動してきたばかりのせいか経理部らしくない華やかな社員だ。たったの1歳差だけれど、つい女の子と呼びたくなる。
「悩みめっちゃあるんですよ」
「めっちゃ、ですか」
「でも、小林さんが悩みを教えてくれないなら私も教えません。弱みのカードはせーのでどんです」
「そうですか」
上司が働いている傍らでお菓子をつまみながらお喋りをする羽野さんが、愛らしく目を細めている。何かに拗ねているらしい。
悩みごとの交換制度を勝手に設けたのはいいけれど、どうして業務時間に悩み相談ごっこをしなければならないのだろう。不干渉が基本の経理部でずっと働いている身からすると、羽野さんは手に余る。
ようやく羽野さんも仕事に戻ろうとしたところ、だいぶ切羽詰まった様子で「小林さん!」と後ろから名前を呼ばれたので椅子ごとくるり振り返った。よくあることだ。
「すみません! 申し訳ありません! ごめんなさい! お許しください!」
土下座をする勢いで書類を持っている男性職員は顔を青くして謝罪を大放出している。この時点で八割は察しがつく。もう一度言うが、よくあることなのだ。
促して話を聞くと、提出した金額の記入が桁ひとつずれていたらしい。これがそのまま気付かれずに流されていたら大問題だった。桁ひとつの金額って、ああなんて恐ろしい。
だけどね、この私が見逃すなんてありえないから。
「ひと通り目を通したところ怪しい箇所がいくつかあったので、上の者に確認したうえで訂正しておきました。大丈夫です」
「グアア、さすがです。ご迷惑おかけして本当に申し訳ございませんでした」
「部署異動したばかりで不慣れな面もあるでしょう。私で対処できる範囲でしたら力になりますので、気軽に質問してください」
「こ、こ、小林さんんんんん!」
目の前の男性社員が先日異動したばかりだと気付いたので、おそらくミスもあるだろうと念入りに確認しておいて良かった。間違いは誰にでもあるし、直接謝罪に来てくれたので厳しく叱りつける必要はない。
いつも通りに淡々と告げると、彼は泣きそうな表情で私の名前を叫んできた。なんなんだ、いったい。
「小林さん、ファンになってしまいました! ついていきます、姉御!」
「ハア?」
「これまで誤解してました、小林さんって優しいしかっこいいし最強ですね! ありがとうございます!」
「用が済んだらお引き取りください」
冷たく追い払うと、どことなく恍惚とした表情を向けられた。そうして自分の仕事に戻っていく姿を眺めながらいい加減にしてくれと心底思う。
ここまでの一連の流れが、よくあることなのだ。他部署の連中らは経理部の小林さんが些細なミスで大激怒するお局だと認識しているらしい。
したがって不良が捨て猫を拾って好感度急上昇の理論により、そこそこの勤続年数を誇るアラサー社会人として当然の行いをしただけで異常に喜ばれてしまうのだ。
不慣れであるせいかもしれないが、過剰な好感度は不安を煽る。怖がられているくらいでいい。好かれなくていい。好きになってもらえると、その後で嫌われるのが寂しいから。
「小林さんってトクですよねえ」
「羽野さんの言いたいことはわかりますが、実際は損ばっかりですよ」
男性社員が去った後、仕事を再開した羽野さんが皮肉っぽさもなく純粋な感想として述べてきた。たしかに私の場合、好感度を上げるのは容易いけれどマイナススタートなので損ばっかりだ。むしろ羽野さんのほうが誰からも平等に好かれているし、ちょうどいいラインの好感度を保っているように見える。
そんな彼女は平然と言葉を続ける。なるほど、今日は仕事が捗らない日らしい。
「きついこと言ってもいいですか、愛の鞭なので」
「嫌ですが」
「小林さんって本気で自分を悲劇のヒロインだと思い込めるタイプですよね」
「仮にも上司によくシラフで鞭を打てますね」
本質の槍、正義の剣、愛の鞭。とりあえず武器を持っておかなければこの世は渡り歩けない。生態系は弱肉強食。可愛らしい女の子の羽野さんも強者サイドの人間だ。強者サイドストリートのスラム出身に違いない。
「ずっと思っていたんです。人生そこそこ上手くいってるくせに、どうしてそんな生きにくそうな顔するのかなあって」
「弊社、風通しが良すぎませんか」
「まあ、私はそんな小林さんが大好きなので喜んでついていきますけどね」
そのひとことには羽野さんが濃縮されているような気がした。彼女の良いところと悪いところが。こうやって失礼な事をしても言っても、彼女のかわいげで許されてきたのだろうなと思う。私も大概であるため「大好きなので」と添える彼女を怒ることなどできないし。
羽野さんは多面性がある。彼女の性格をひとことで表すのは困難を極めるが、その雑味こそが人間味というものだろう。
彼女のことを好きになれることはない気がする。むしろ決定打はないけれど何かが鼻につくというか、そういう存在。根本がずるい人だから信用にならないし。だけど羽野さんが悪人だとも言い切れない。いっそ悪人だったら良かったのにと思うけど、世の中の大半は善人でも悪人でもない。両性具有なのだ。
一見すると「あざといゆとり女子」といったありきたりな場所に分類されがちだが、内側の羽野さんはもっと味わい深いと思う。やっぱりすごいな、羽野さん。
私が彼女を好きになりきれないのって、認めたく無いけれど多方面における嫉妬に由来する。こういうときに使う慣用句で「独身女性の一歳差」というものがある。意味は「過敏になりやすい関係」だ。まあ、もちろん嘘だけど。
そんなこんなで17時半。週の初めからとても疲れた。
稼いで貯めるぜ給料、たまるぜ疲労、それでも頑張る君はヒーロー。おっといけない、ラップを披露。イエア。
「お疲れ様です、小林さんは退勤ですか」
帰る前に足の浮腫をほぐそうと軽い屈伸をしていた私のところに、あらひょっこり。わざとらしく覗き込んできたのは成人済みでただひとりの美少年だ。夕方だというのに一切の疲労を感じさせない綺麗な顔は、化粧しているのかと疑うほど肌までぴかぴかに光っていて羨ましい。さては若さの泉、見つけたの?
「お疲れ様です。小林はもう退勤するので急ぎでなければ明日にしてください」
閉店シャッターを見せつけるようにおろしてしまえば、道枝くんがくすくす笑った。淡いブルーのネクタイが似合いすぎる。そしてどうやら、慌てない様子からして仕事の用件ではないようだ。だとしたら、何故わざわざここに来た?
まだ数人が残業している経理部内で、控えめな視線をちらちらと感じる。他部署の人が訪れることは珍しくないので異様に目立つ場面ではないのだけれど、弊社のアイドルであればさすがに注目を集めるらしい。美少年は疲れ目に効く。
「すみません、経理部の階に用事があったので小林さんの顔を見たくて来てみただけです」
「仕事、なめすぎでは?」
「小林さんに会いたいなあと思うのは生理現象なので、お手洗いに行くようなものですよ」
悪癖により論破し返そうとする私を鮮やかにかわす道枝くんが「あ、ちなみに今日は論破禁止です」と先手を打って付け加えた。炭酸の気が抜けるようにしゅわしゅわと疲労が解けていく。喜ぶべきことを言われてるのか分からないけど、なんだろう、この脱力感。
「禁止? ノー論理デー?」
「そうですノー論理デーです、世界的に決まってます」
道枝くんは目を細めて笑いながら、「帰るところだったのに引き止めちゃってすみませんでした」と頭を下げた。本当にただ挨拶だけのために来たらしい。
こちらも会えてうれしかったよ、などと返すほどのコミュニケーション能力など持っているはずもない私は「では」とだけ短く返した。それに気を悪くした様子もなく、彼は満足そうに微笑んだ。
「んじゃ、僕、松葉さん待たせてるので!」
しかも、平気で上司を待たせていたらしい。松葉さんなら怒らないだろうけど、松葉さんって何考えてるか分からないから内心では待たされるの嫌いそう。失礼しました、とあっさり去っていく後ろ姿を見送りながら先週金曜日の記憶をなぞる。
さすがに職場では羊さんとは呼ばないみたいだ。同様に私も敬語のままで話してしまった。その日常がなおさら、あの夜の特別感を演出してくるわけなのだからどうしようもない気持ちになってしまう。
低いところでじんわりと高揚した気分のまま、はやる足取りで会社をあとにした。地味にいろいろあった一日のような気がしていたけれど、たった一瞬の道枝くんに記憶を塗り替えられてしまったので彼は塗装職人に転職したほうがいい。
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