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土曜ソリトンSide-B : あれから20年⑧

その8:坂本龍一ワールド・ツアー - part1

※いつのまにかソリトンから離れた話題になってますが。このあたりのことは詳しく語ったことがなかったので、忘れてしまう前に記録しておきます。

それは、アクシデントだった。
1994年のある日、寝耳に水のオファーが飛び込む。
「坂本龍一ワールド・ツアーのギタリストをやりませんか?」

経緯はこうだ。
坂本龍一さんは1994年にアルバム「Sweet Revenge」を発表し、国内13本、香港・ヨーロッパ13本のツアーを敢行することになっていた。ところが、予定していたブラジル人ギタリストの就労ビザの申請に何らかの問題があって、ビザが発給されないことがリハーサルの直前に発覚、来日できないことが判明。このままではツアーができない、でも、代役は誰に?

緊急会議が開かれ様々な案が出された。その中であるスタッフの口からこんな発言が飛び出したという。「高野寛はどうですか?」そのスタッフは当時の僕の事務所に所属していた。前回記したとおり「Sweet Revenge」へのギター&ヴォーカルでの参加に始まり、坂本さんのプロデュースによる「夢の中で会えるでしょう」の制作と共演が布石となって、そんなアイデアが出たのだ。

その変化球の提案が好評を得て、高野寛ギタリスト説がにわかに現実味を帯びる。おりしも僕は「夢の中で会えるでしょう」発売を控えて、プロモーションを始めようとしているところだったが、ソロツアーやアルバムのレコーディングの予定はまだなく、坂本さんのツアーには一本を除いて全部参加できることがわかった。

突然降って湧いた、ギタリストとしての大仕事。武者震いするような気持ち。僕自身はやってみたい気持ちで一杯になったが、クリアしなければいけない問題はたくさんあった。
まず、周囲のスタッフの反対。レコード会社の担当者には「シングル発売を控えたアーティストが(たとえ坂本龍一さんであっても)誰かのバックバンドをやるなんてあり得ない」という反応だった。事務所内のスタッフ間でも賛否は別れた。

そんな中、相談した幸宏さんに言われた一言は今でもはっきり憶えている。
「ワールドツアーなんてできる機会は一生に何度もないはずだから、絶対やっておいたほうがいいよ」
その言葉に背中を押されて、僕は反対するスタッフを一人ひとり説得に回った。

そんな熱意にほだされ、当初反対だったスタッフも最終的には折れた。一本だけスケジュールが重なっていた東京(中野サンプラザだったか?)のライブは、佐橋佳幸さんがピンチヒッターを引き受けてくれることになった。(たった一日、リハーサルに参加しただけで見事に代役をこなしてくれた佐橋さんは、プロ中のプロだ)

とはいえ、正式に参加が決まったのはリハーサル開始のわずか10日ほど前だったと思う。その10日間で、ポップス~ボサノヴァからファンク~現代音楽までの多様な音楽性と複雑なコードも多い坂本さんの曲をマスターしなければいけない。ツアーのためにガットギターとワウペダルも新調した。嬉しさも束の間、怒涛の試練の日々が始まった。

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※矢野さんと細野さんゲストの回・ダイジェスト映像



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