「自分ごと」なまちに引っ越してきた。
人が増えると、誰かがやってくれるだろうになっていく。減ると、自分がやらなきゃになる。
このまちは、元からある地元愛(整理整頓上手なとこ、性分なのかな)と、少子化が組み合わさって、住む人にとってより「自分ごと」なまちになっているのかもしれないと思った。
長野へ引っ越してきて2週間が経過した。8月のデンマーク留学へ向けて、勉強に集中するために期間限定でシェアハウスに滞在している。
ここでの暮らしが好き。
街自体のひとが少ないので、一人一人に対して丁寧に関わることができる気がする。これは最近まで東京に暮らしていたギャップによるものだと思うんだけど。元々、丁寧に人と関わりたい性分なのに、関係人口が増えるとすぐキャパオーバーして、おまけに記憶力も良くないので相手の近況とかすぐ忘れてしまうことに申し訳なさを感じていた。
ここではそんなプレッシャーをあまり感じない。私を数ではなく「私」として見てくれる人たちに囲まれているからかも。
またこの街の公共物、特に建物は美しいと思う。人の手による管理が行き届いている。「信州のまちは、整理整頓上手」という言葉が頭に浮かぶ。
地元長崎との違いは、同じように少子高齢化が顕著に見えるまちなのに、自分ごととしてまちに手を加えるひとが多いことだと思う。道にゴミが落ちていれば拾うし、公民館の段差に埃が溜まっていれば掃除する。自分の家だけでなく、まち全体も自分たちの管理の範囲であること、その共同体性を感じる。窮屈に感じるときもあるかもしれないけど、そこには愛があるのではないか。
私の故郷にはあまりない感覚(年齢が若すぎるのかな)。長崎のまちは坂と海によって境界線が生まれていて、自分の領土が地形に決定されているのかも。自分で線を引いているわけではないのに管理範囲が決められている感じがする。長野は道がひたすら広く、遠い川によってやっと生まれる境界線、そこまでが管理していい範囲。靴を脱ぐエリアが自分ちだけでなく外の道まで広がってる感じ。
当初の目的では、このまちを”消費”しに来た私だけど、何ができるかなと未来の関わり方も考え始めている。同時に、他人事でいたかった自分の故郷にもやっぱり何か恩返しをしたいと、放ってはおけない気持ちを抱いてる。
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