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先祖は鬼を斬った男! 家康の切り札「槍の半蔵」がゆく

とくがわいえやすの家臣で、やりのつかい手といえば、誰を思い浮かべるでしょうか。多くの人はほんへいはちろうただかつかもしれません。なにしろ愛用の槍蜻蛉とんぼきりは、天下三めいそうの一つ。忠勝自身も徳川四天王の一人に数えられ、生涯戦場で傷一つ負わなかったという、家康家臣きっての名物男です。

一方、槍のつかい手は「槍の○○」というみょうで呼ばれることがあります。たとえば「槍のまた」ことまえとしいえや、「槍のさん」ことさんざぶろうなどは有名でしょう。家康の家臣の中でその異名を持ったのは、「槍の半蔵」こと渡辺わたなべはんぞうもりつなでした。ちなみに同じく通称が半蔵の服部はっとり半蔵と並び称され、「徳川殿は良い人持ちよ 服部半蔵は鬼半蔵 渡辺半蔵は槍半蔵」とうたわれています。

今回は徳川十六神将の一人でもある槍のつかい手、渡辺半蔵守綱についてまとめた記事を紹介します。

先祖は鬼退治の武者


渡辺姓は現在、全国で5番目に多い苗字とされますが、その先祖は一人の武者でした。

平安時代のいちじょう天皇の(986~1011年)、たんばのくにおおやま(京都府)に住み、都をおびやかしたという鬼の王・しゅてんどう。この酒呑童子を退治したのが、「らいこう」ことみなもとのよりみつとその配下の四天王らだったという伝承があります。そして四天王の筆頭とされる武者が、渡辺わたなべのつなでした。彼は酒呑童子だけでなく、京都の一条もどりばしでも鬼の腕を斬った話が伝わります(その鬼は一説に酒呑童子の配下・いばら童子であったとも)。

渡辺綱はげんの血筋で、せっつのくに西にしなりぐん渡辺わたなべの(大阪府)を拠点とし、子孫は全国に広がりました。ぜんのくに(佐賀県・長崎県)のまつ氏、ちくごのくに(福岡県南部)のかま氏、もう氏の家臣渡辺すぐるとよとみ氏の家臣渡辺内蔵くらのすけただすらも、子孫といわれます。

また、子孫はかわのくに(愛知県東部)にもいました。そして戦国の頃、徳川家康に仕えたのが、渡辺半蔵守綱だったのです。つまり「槍の半蔵」の先祖は、鬼退治で名をせた渡辺綱でした。

渡辺綱

「槍の半蔵」の真骨頂


渡辺半蔵もまた、家康の配下として、先祖の名に恥じぬ活躍をします。三河わたの戦いでは、困難な撤退戦の殿しんがりを務め、追撃をかけてくる敵を撃退すること3度、ついに味方を無事に撤退させました。家康は半蔵の武功を大いに誉め、そのときのすさまじい槍働きから、「槍の半蔵」の異名が生まれたといわれます。

三河いっこういっでは、渡辺一族がこぞって一揆方についたため、半蔵も家康と敵対しました。一揆終了後、敗れた渡辺一族の大半が他国へ去る中、半蔵は許されて徳川家に仕え続けることになります。このことからも、半蔵がいかに家康に信頼されていたかがわかるでしょう。

渡辺半蔵は大部隊の指揮官というよりも、小勢をひきいて自ら先頭に立ち、槍働きをすることを得意としました。家康もそれをよく心得ていて、戦場では常に旗本として本陣に置き、ここぞという局面で、半蔵の一隊を投入して勝利を決定的にするような「切り札的」な使い方をしています。あくまで最前線で大暴れする、それが「槍の半蔵」のしんこっちょうでした。

半蔵の勇猛果敢な戦いぶりについては、和樂webの記事「天下無双の槍の名手!『どうする家康』渡辺守綱の実像と生涯」をぜひお読みください。

半蔵の槍


記事はいかがでしたでしょうか。

なお和樂webの記事では紹介できませんでしたが、てんしょう3年(1575)のながしのの戦いにおいて、先鋒を命じられた半蔵はたけ軍と激しく戦い、負傷するもののやまもとかんすけを討ち取りました。武田しんげんに仕えた軍師ともいわれる、あの山本かんすけの息子です(当時、軍師という言葉は使われていませんが)。一方、弟のはんじゅうろうまさつなが、さなのぶつなまさゆきの兄)を討ち取りました。兄弟そろっての武功です。

またけいちょう5年(1600)のせきはらの戦いの折には、半蔵は本陣の家康のかたわらにいましたが、陣を高地に置くことを家康に進言して許され、その場所を選んだといわれます。高地とは、ももくばりやまのことを指すのかもしれません。家康の半蔵への信頼が、揺るがなかったことを感じさせます。

なお、半蔵が愛用したとされる槍が現存します。刃長75.5cm、めいひろすけしま広助であれば室町時代後期の駿する(静岡県東部)の名刀工であり、半蔵の数々の活躍を支えるにふさわしい逸品だったことになります。槍一筋で家康を支えた半蔵、彼もまた典型的な三河武士だったというべきでしょう。

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