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こんなに生きづらい世の中で

私は生まれてから今日まで幸せだなぁと感じた事は一度だけ。
息子が産まれてきてくれたときのみです。

親の言いなりにしか生きていけなかった20代。
その親から離れたくて結婚したくもないのに結婚。
世の中バブルだったので結婚式、ハネムーン旅行行きましたが何一つ何ならドレスの一つも自分では選べず、旅行先も行きたくないところへ行くと言われ、旦那さん(Aさん)は毎日お酒に溺れ楽しいといえる旅行でもなく成田離婚したいくらい嫌でした。でも、また毒親のいる実家に帰るのも嫌でした。
子供が生まれるまで働き、子供ができ、子育て期間に入りました。子供と二人でのんびり過ごした時間などなく、日中は、毒親から呼び出され親の足となり車であちこち連れ回され、夕方になると体が弱い息子が高熱を出し病院へ行こうとすればAさんはもう、既に泥酔状態。夜中に病院へ連れて行くのもしょっちゅうでした。更に義父が余命宣告受け闘病生活となり、息子を保育園へお願いして義父の病院へ洗濯物を取りに。淋しそうにしてる義父の姿をみると義母はもう毎回遊びに来る感じでお見舞いにきても遊びにいってくるから後、よろしくね。と…。Aさんもお見舞いにいくこともなく、毎日少しだけ義父と他愛のない話をしたことを覚えてます。義父にはとても可愛がってもらったのです。
そうこうしているうちに義父が亡くなり…。
落ち着いた所で離婚の話をしました。当然両家の親は世間体が悪いなど私の気持ちは無視でした。
その様子をよく見てた息子が、離婚して母さん!一緒に家を出よう!と言ってくれました。

友達の車を借りて引っ越ししました。

家出のような形で出てきました。
そして家庭裁判所で離婚調停し離婚して息子の親権も私となりました。

この頃はまだ30代前半で健康で元気でした。
夜も寝ないで働いて息子に不自由させないように頑張って働きました。

40代になりお付き合いしてた人からプロポーズされました。でもお断りしました。
息子が1番だったので結婚する気には慣れませんでしたし、お付き合いするのも遠距離になるのでお断りしました。

そして東日本大震災で被災しました。
仕事も失い、とりあえず僅かな失業手当を頂き、たまたま掛けてた地震保険でまとまった金額が入り、壊れた家電などを購入し、大切に使ってた所に区役所の臨時職員の募集があり、応募、採用となり息子が仕事に就くまでは生活できるメドがつきました。
そうこうしてるうちに、息子も就職内定頂いてたところから連絡がきて仕事に行くようになりました。

その時はプロポーズされた(Bさん)とは連絡もなく息子とそれなりに楽しい生活が出来てました。

続く…

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