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約束

 暑気払いは三次会まで盛り上がった。
 だが、今晩はまだ飲み足りない気分だった。
 洋太郎は、盛り場の裏路地にたたずむ、小さな店のドアに手をかけた。
(『ほらふき男爵』か。パッとしないが、酒があればそれでいい)
「あら、洋ちゃん!」
 中にいた女たちが、わっと立ち上がり、洋太郎を取り囲んだ。
「ずいぶんじゃないの。寂しかったわァ!」
 なんだ?
 人違いか?
 呆気にとられ、硬直している洋太郎の背中をひとりがはたいて、
「しゃんとしなさいよ、洋ちゃん! 今日は資材管理部の暑気払いだったんでしょう?」
 はっとした。
 そのとおりだった。
 女は、言った。
「なにポケーっとしてんの? 先週そう言ってたじゃないの。しっかりなさいよ!」
 また、背中をはたかれた。
 この人が、ケメ子。
 細身のすらっとしたのが、ルイ子。
 いちばん年かさの、貫禄のあるのがパオ子。
 会話の中で、それと知ったのである。
「ねえ洋ちゃん」
 ブランデーをグラスに注ぎながら、パオ子が訊いた。
「あの本、もってきてくれた?」
「――本?」
 酔いが回り、結局、すっかり打ち解けていた洋太郎が訊ね返した。
「本って、なんだい?」
「わすれんぼォ!」
 ケメ子が背中をたたく。
「小説の続きを貸してくれるって、約束したじゃないの!」
「は」
 わけがわからなかった。
 洋太郎は、小説なんかろくすっぽ読まないし……
 やはり、かなり初手から、人違いをしているのではあるまいか?
「パオ子は読書家なのよ」
「そ、そう」
 洋太郎は、目を丸くしながら、
「なんて本?」
「『渇いた街角』。忘れたの?」
 渇いた街角――。
 聞いたこともない。
 もちろん、そんな本を、洋太郎は持っていない。
「下巻を貸してくれるって、洋ちゃん先週約束したのよ。やだわァ、レデーとの約束を破るだなんてサ」
 パオ子は残念がった。
 冗談で言っているようには見えなかった。
 これが冗談だったら、なにも面白くない。
「来週必ず持ってきて」
 見送りのとき、パオ子は念を押した。
「続きが気になって仕方ないのだもの」
「探してみるよ」
 むろん、家を探すのではない。
 書店にあれば、買ってやろうと思ったのだ。
「探す? 持ってるんでしょう? 『渇いた街角』の下巻」
 と、パオ子は射るように彼を見た。
「あ、ああ」
「でしょう?」
「う、うん」
 洋太郎は口ごもる。
 なんとなく、彼をまごつかせる迫力のようなものが、パオ子にはあったのだ。


 翌朝になってみると、二日酔いがひどかった。
 それもあって、本のことなど、彼はすっかり忘れてしまった。
 また、金曜日がきた。
 別に気に入ったわけでもないが、洋太郎はふらりとやって来て、『ほらふき男爵』のドアを叩く。
「洋ちゃん、本は?」
「ああ、本」
 洋太郎は手を叩き、
「忘れた――そうだ。そうだったな」
 軽い感じでそう言うと、三人は、ぴたりと石のように静止した。
「……ないの?」
 ルイ子が、額に青筋を立てた。
「パオ子と約束したのに?」
 と、ケメ子。
「ご、ごめん」
 洋太郎は、気圧され、萎縮した声を出した。
「うちにあるかと思ったんだけど、なくて……」
 すると、ルイ子がつかつかと歩み寄って、
「名前は?」
「え」
「本の名前だよ。言えるよな? 持ってるんだものな? 本の名前だよ。言えよ」
 ぎょっとした。
 三人は、夜叉のような顔で、じりじりと距離を詰め……
 そのまま押しつぶされるのではないかと、洋太郎は怯えた。
「な、名前は忘れた」
「は?」
「本の名前は、忘れた……」
「…………」
 ――沈黙。
 静寂。
 ごくり。
 洋太郎はつばを飲みこんだ。
 ぎゅっと目をとじる。
 たらりと汗が流れる。
 ――嬌声。
「もう!」
 ケメ子の、あけすけな笑い声。
「洋ちゃんったら、ドジなんだからァ!」
 パオ子もルイ子も、手を叩いて笑いだす。
「冗談よォ! 洋ちゃんったら怯えちゃって、可哀想だわァ!」
「ごめんね洋ちゃん、ちょっとした冗談のつもりだったの。ほら、うちの店『ほらふき男爵』っていうでしょう。あたし、冗談が好きなのよ。アッハッハ!」
 パオ子は、それから、詫びるように洋太郎の頭をごしごしと撫でた。
「さ、なんにする? そうだ、ルイ子の実家からフキが届いたから、煮物にしたの」
「あたしがしたのよ!」 
 さっきは青筋立てて洋太郎に迫っていたルイ子は、すっかりにこやかになって、
「ねえ、あたしって家庭的でしょう? 貰ってヨ、洋ちゃん!」
 そう言って、洋太郎にむしゃぶりつく。
「ダッハッハ!」
「アーッ、ハッハ!」
 女たちの笑い声。


 翌日。
 洋太郎は、新宿の紀伊国屋へ足を伸ばした。
『渇いた街角』など、洋太郎は知らないが……
 とにかく、はじめから巨大な書店へ行けば手に入るだろうと考えたのだ。
「『渇いた街角』?」
 売り場の店員は、首をかしげた。
「それ、小説ですか?」
 確証はなかったが、
「はい。多分……」
「ハードカバーですか? 出版社わかります?」
 なにもわからなかった。
「著者もですか?」
「はい……」
 どうせ訊けばすぐにわかるだろうと思っていたのだが、いきなり、当てが外れた。
 思いだした。
「あの、その本、下巻があるはずです」
「上下巻あるんですか?」
 それはわからなかった。
 中巻がないとも限らないからである。
 しかし。
「た、たぶん上下巻」
「二冊ですね?」
「はい」
「お調べいたしますので、しばらくお待ちください」
 一五分ほど、待たされた。
 いろんな人間に訊いたが、わからないという。
 のみならず、主要な出版社の目録を当たったが、『渇いた街角』などなかったらしい。
 洋太郎は頭をかかえた。
 連中、冗談めかしていたが……
 次に『渇いた街角』を持ってこなかったら、どういう目に遭うか知れない。
 もちろん、どんなおっかない反応を見せようと冗談なのだろうが、それでも、空手で行くのは御免だった。
 むろん。
 行かなければ、いちばんいいのだ。
 もう、あんな店へ行かなきゃいい。
 さよならばいばいすれば、それで終わるのだ。
 それはわかっていたが……
 洋太郎は、古書店をはしごした。
 そうさせるなにかが、彼を動かしたのだ。
 はじめから、絶望的な線だった。
『渇いた街角』が紀伊国屋にすら置いていない以上、すでに絶版となった書籍である可能性は、低くなかった。いや、かなり高いといったほうがいい。
 といって、夥しい古書群の中から『渇いた街角』を発掘する自信は、まるでなかった。
 まるでなかったが……
 結局、洋太郎は土曜日と日曜日を、『渇いた街角』の捜索に当てた。神保町に張り付いたのである。
 店主に訊ね、客に訊ねしたが……
 それでも、見つからなかった。
 これでは、やはりトンズラしかない。
 やむを得ないのだ。
 洋太郎はそう心に決め、アパートへ帰ったのであった。


「パオ子というのは、知り合いかね?」
「は」
 月曜日。
 昼食から社へ戻るなり、係長が洋太郎に訊いた。
「パオ子――」
「きみのいない間に、外線電話が入ったんだ。金曜日は、必ずお店へ来てちょうだいだとさ。困るなァ、会社に営業電話が入るんじゃ」
「すみません」
 彼が顔を赤くすると、デスクの周りの連中も、くすくす笑った。
(――名刺だ)
 彼は、頭を抱えた。
(きっと、おれは店で女の子に名刺を配ったにちがいない。そんな記憶は、おれにはないが……酔っ払っていたかもしれないし、はじめに店を訪れた、あれ以前に、もしかしたら――)
「反省したまえよ。課長には言わんどいてやるから」


 彼は、毎日本屋で『渇いた街角』を探した。だが、そんな本は、さっぱり見つからなかった。
 店へ行かない、ということは許されない。
 あれ以来、会社のビルから外を見ると、パオ子にルイ子、それにケメ子が、頻繁に通りをうろついているのを見かける。理由はわからないが、自分を見張っているのだとしか思えなかった。
 ロビーの受付窓口にも、連中は来た。
 金曜日に約束があるから忘れるな、それだけ伝えてくれればわかるからと言って、帰るのである。
 ――今日は金曜日。
 洋太郎は、午後は年休をとり、東京からずっと遠くへ向かう急行列車に、慌てて飛び乗った。
 で、いまは車内である。
 こんなことをして、連中から逃がれられるかわからないが……
 いま、彼はぶるぶる震えながら、ふだんは被らぬ中折れ帽に目元を隠し、じっと俯いているのであった。

 
 

 

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