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男と女

「本当に来るんだな」
 本当に、来た。
 若い女がひとり。
 小さなハンドバッグを提げ、ドアの前に立っている。
「来たわよ」
 ヒールの高い靴を脱いで、ソファに座ったままの彼の目の前に、犬のようにしゃがみこんだ。
「呼べば来るわよ。それがあたしだもの」
 女は、長い髪をふわりと撫で上げる。
「海を見なくていいのか?」
「いいわよ。さんざ見ているから」
「そう――」
 彼は、胸ポケットから煙草を取りだそうとする。
 女は、それを制する。
「――どうしたいの?」
 ぐっと、大きな眼で彼に迫った。
 薄く掃いた粉白粉おしろいの、乳臭い薫り。
 髪に染みた、煙草の匂い。
 彼は、女の軽やかなからだを抱きとめる。
「抱きたいのね?」
「いや――」
 彼は、曖昧さを残さず、言い切った。
「女なんか、たくさん抱いたから」
「どこで?」
「さあ」
「…………」
「どこでだって、さ」
 部屋には、西陽。
 曲がった閃光。
 白い閃光。
 暮れかかる海は、絵画のように格子に収まって。
 そして、波。
 波の音。
 ざらついた、雨滴の落ちるような音。
 女のため息。
 ばた臭い洋室に、ため息は散っていく。
「もう、いいわ」
 女は、ベッドの上に寝そべる。
 しばらく、指先を遊びにつかう。
 そして、声。
「お酒、飲んだ?」
「いや――」
 女は起き上がる。
 慌ただしい女。
 部屋の隅で居心地悪そうにしていた冷蔵庫の扉を、ぱた、と開ける。
 罐を二つ取りだした。
 一方を、彼に渡す。
 彼はかぶりを振る。
「いらないよ」
「飲みましょうよ」
「いらない」
「飲んでよ」
 女は、ソファの彼にまたがるような格好で、スカートを脱ぎはじめた。
「飲んだら、抱きたくなるわ」
 彼は、心底不愉快なものを見る目で、女の、だんだん露わになるからだを眺める。
 どうして、おれは女を呼んだのだろう?
 彼は考えた。
 いや、果たして、女なんか呼んだのか?
 女が勝手に押しかけたのではないか?
 急に、彼は女を跳ねのけるようにして立ち上がった。
 生暖かい、じっとりしたものが、彼の太ももへ落ちた。
 バスルームへ向かう。
 ドアを開ける。
 浴槽には、女。
 血の沼に女。
 おもちゃのように、赤い舟。
 彼を見詰めている。
「……死ねと言うために呼んだのね?」
 女の口元は、沼の中。
 赤い沼の中。
 声だけが聴こえる。
「そうさ」
 彼は言った。
「だが、おれも死ぬつもりだ」
 気がつくと、窓辺。
 海の見下ろせる窓辺。
 追及したがりの、あけすけな西陽。
 彼の足元には、さっきの冷蔵庫。踏み台にするには丁度いい高さだ。彼は、くびれたとき、一瞬見た気のする、窓の桟の埃を見下ろした。
 瀟洒なリゾートホテルなのに……見えない箇所の掃除はおざなりだなと、彼は最期に呆れた気がする。
 振り子のように揺れる、ナイロンロープ。
 吊られた男。
 正位置。
 陰影。
 波の音――。


「この部屋、いますね」
 カメラクルーに先立って足を踏み入れた、黒ずくめの男が言った。
 壁はスプレーで落書きされた、窓硝子のない、がれきの部屋。
「男女です。ここで死んでます」
 男は、震え上がるカメラマンを振り返って、
「道ならぬ関係ってやつです。ここで精算したんですよ。ま、よくある話ですが」
 
 

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