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第71_死にたければ自分で死ね

 2019年5月に発生した「川崎登戸通り魔事件」では、当時51歳の男がスクールバスの停留所で児童や保護者を刺殺した後、自殺した。この事件以降も、東京の京王線の列車内で火をつけ、刃物で乗客を刺した25歳の男が逮捕後「誰でもいいから2人くらい殺して死刑になろうと思った」と供述した。その後も無辜の命を「死にたい」という理由で刺殺する事件が発生している。

 当時の大阪知事の「死にたければ自分で死ね」という言葉は印象深い。そしてそれは、多くの人が持つ感情ともいえよう。

 だが、こうした事件はそうした言葉で終わらせてはならない、社会のあり方の本質を迫る問いを投げかけている。ここでは、とりあえず死刑についてだけに絞る。

 これらの事件は、精神鑑定や情状酌量などはあるにせよ、まったく知らない人を殺意を持って死に至らしめた事実に争いはなかろう。死刑判決が予想される事件である。では、ここでの死刑判決、さらにはその執行は何を意味するのか。死刑になりたくて見ず知らずの人を殺したものが、その念願を叶える。もちろん、今はそう言っていても、いざ死を目の前にすれば変わるかもしれないし、そこまでいかずとも、なにかをきっかけに変身する可能性はあるだろう。 

 死刑が計画通りに執行されたとすれば、いったいそれは何の意味があったのか。被害者はいったい何のために殺されたのか。

 こうした犯罪には、これまで死刑存置の根拠とされてきた報復感情を成立する余儀を残さない。死にたくて人を殺し、死刑を執行される。そこにあるのは法で定まっていることをその通りに執行している、それだけである。国家の秩序維持として、一つの理ではある。だが、そのことが強調されればされるほど、同様の犯罪を誘因する。いったい我々は何をしているのだろうか。

 こうした事件はこれがはじめてではない。ここまで明確ではないにせよ、記憶にある池田小事件など、死刑を確保したものが起こした犯罪はいくらでもある。だが、死刑をめぐる議論の中で、それらの事件がもつ意味が問い直されることはあまりなかった。

 こうした事件について、最初は大きく報道されるのが通例である。ところが、当時は増税の話題や、他のテーマに話題があったにせよ、「死刑になりたくて」という動機が語られ出した途端、小さな扱いになったのは穿った見方だろうか。

 これまでも死刑を誘因する犯罪があり得ることは指摘されてきた。それが現実化されているのである。このような現実を目の当たりにしている今、少なくとも、死刑廃止を掲げる候補が出てくるべきではないか。

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