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第72_情報の記憶

 かつて携帯電話がなかった時代、人間は、友人や、出前を頼む蕎麦屋など、結構な数の電話番号を記憶していたそうだ。普段メモ帳などを持ち運ばない人は、驚異的な数のクラスメートの電話番号を記憶していた。やがてケータイが普及すると誰も他社の電話番号など覚えなくなった。ケータイが記憶しているから当たり前のことである。

 情報の記憶を外に確保すると、人は自分の脳からその記憶を消し去ってしまう。こうした経験的直感を、コロンビア大学の心理学者スパロウ教授が実験で確かめた。

 実験参加者の半分は、40の雑学的知識を読み、それをキーボードでコンピュータに入力する。事前の指示では、それらのコンピュータ上に保存されることになっている。残りの参加者は、入力後、メッセージを削除するという情報が与えられている。次に実験参加者は紙を渡され、10分以内で先ほどのメッセージをできるだけたくさん書き出すことが求められる。その結果、保存されると思っていた群のメッセージ早期率は、削除されると聞かされていた群より有意に低かった。人は情報が保存されていると考えると、いつでもそれにアクセスできるという認識をもつため、その情報を速やかに忘却するのである。

 心理学では古くから、未完の出来事の記憶は完了した出来事よりも長く保存されるという「ツァイガルニク効果」がよく知られているが、前記の結果は、「保存」という行為で一連のプロセスが終了したと認識したため、と考えることもできる。

 次の実験では、実験参加者はやはり30の雑学的知識を読み、キーボードで入力する。そのうち10のメッセージには入力後「あなたの入力は保存されました」と通知され別の10のメッセージには「あなたのメッセージはフォルダーXに保存されました」と通知される。Xには「DATA」など一般的な名称がつけられている。残りの10のメッセージは入力後、「あなたの入力は削除されました」と通知される。実験参加者は、その後、画面に新たに表示されたメッセージを見て、最初に見たメッセージと同じかどうかを判定する。後の表示では、半分のメッセージにおいて、最初のものと微妙に文言を変えてある。その結果、削除と通知されたメッセージは、他のメッセージ群より、再認精度が有意に高かった。つまり、削除されると認識した情報は。細部までよく記憶していたことになる。
 
 最後の実験では、手続きは途中まで前の実験とほぼ同様であるが、各メッセージを読んで入力した後、メッセージごとの6つのフォルダーのどこに保存されたかの通知が表示される。その後、10分間できるだけ、自分が読み、入力したメッセージを書き出すのだが、さらにその後、メッセージのキーワードが提示されて、メッセージ内容と保存場所が質問される。

 その結果、メッセージの内容と保存場所が覚えられていたのは17%、内容だけが11%、どちらも覚えていないが38%だった。つまり、メッセージがコンピュータ條で保存されたと認識している場合、その内容を思い出せなくても、保存場所はよく覚えているということになる。スパロウらは一連の現象を「グーグル効果」と名付けた。

 人の記憶の容量は限られている。そのため、先の例は、第一に、不要な情報は速やかに記憶から抹消する、第二に、大事な情報はどこかにメモして保存する、第三に、付き合いのある人同士で記憶を分散させることである。心理学では、第三のケースを「交換記憶」または「対人交流記憶」と読んでいる。家族でも会社でも、それぞれに得意分野があり、何々なら某さんも全てを頭で記憶しているわけではなく、どこを探せばいいか、場所をよく知っている。

 ネットが普及し、我々が目にする情報はかつてと比べ桁違いに増大している。そして、社会では容量良く生きていくために、必要な情報の大半はネットに記憶されていて覚える必要がないことを認識している。人々が細々とした知識を暗記しないのも、新たに情報技術の進歩への適応である。我々はかつての「対人交流記憶」の多くを、ネットという外部記憶領域に委ねる比率が増加してきた。例えば、かつては専門家と素人、教師と生徒の境界がはっきりしていた。わからないことは専門家や教師に聞けばよかった。しかし、今その種の分業の形態は崩壊しつつある。専門家や教師にきかなくても、直接、ネットで情報を探せばいい。そもそも専門家や教師の情報検索先も多くはネットの世界である。もはや、学生は教師など頼りにしていない。

 「情報の記憶」という作業に関して、脳の役割の大部分をネットの世界が代替しうると認識すると、人は情報を見るだけにして、記憶しようとするモチベーションを失う。情報を見るだけで作業は完結したことになり、むしろ消極的に記憶から抹消してしまうことになる。問題は、こうした知的に怠惰な習性が幼少時代に身についてしまうと、精神的な成長に悪影響を及ぼしかねない点である。また、対人交流記憶の対象としいての仲間探しも無意味になってしまい、お互いを知的に尊重し合うという態度が欠落していく可能性が生じる。

 そもそも脳に記憶を蓄積し、知識を構造化していくという作業は貴重である。たとえばタラス河畔の戦いで唐軍の捕虜から中国の製紙技術がイスラムに伝わり、十二世紀の半ばにイスラム支配下のスペインに製紙工場が建設された後、ヨーロッパ各地で紙の生産が普及し、一四四五年頃のグーテンベルグの活版印刷術改良と結びついて、聖書やその他、ギリシア文化からイスラム圏で継承・展開された科学や地理学、幾何学、航海術の知識を含む多くの書籍が出版された。そこに、一四五三ビザンツ帝国がオスマン帝国に滅ぼされたことで、古代ギリシャ文化の文献を携えてイタリア亡命した知識人が、中世西洋人の啓蒙に加わった。絵画のモチーフとなったギリシア神話の紹介もその一つである。それによって、イタリアルネッサンスが全盛期を迎え、ドイツで宗教改革が導かれ、大航海時代の素地が形成された。こうした世界史の発展は、それぞれの項目をネットで検索しただけでは結びつかない。私の場合、受験勉強で年号を無理やり記憶したことが知識の構造化に役立っている。

 一般的に「知識」は、命題化可能な 陳述記憶のうち、言語で表現できる意味記憶に属する。この記憶が外注化が可能であるが、一方で、自転車に乗ることや、楽器演奏などのような体で覚える「手続き記憶」も存在する。この手続き記憶は外注化ができない。ネットで探し求められる情報は所詮言語を含む記号の集合にすぎないのであり、手続き記憶の習得を、意味記憶の延長として捉えて鍛錬を蔑ろにするとあとになって痛い目にあう。


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