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第73_沈黙の螺旋

 社会心理学の研究では、ネット上で、「集団極化現象」が生じやすいとされる。ある問題について議論が交わされる中で、極端な意見、多くはよりリスクを孕む意見が優勢になりやすい。これは、他者より目立とうとする動機づけが働き、より勇ましい意見を提起するものが場を支配する傾向にあることによる。特に発言が匿名化されるネットの状況下では、自己の責任感が低下し、他の参加者の年齢や地位への配慮が無用になり、年長者による調停も効かなくなるなどの理由でこの傾向が顕著になる。場の雰囲気にそぐわない反対意見や「もっと冷静に考えよう」などという中立な意見、意見感調整を試みようとする発言は無視されたり罵倒されたりしがちになる。「今、そんなつまらない意見出す場合か。場の雰囲気を読め」という同調圧力が働く。近隣諸国に関するネトヨウの議論などがその典型である。

 対義の場で、反対意見を持っていても、それを表明することで批判を浴びたり、孤立したりすることを恐れて、自分を少数派と認識した人は次第に発言を控えるようになる現象は「沈黙の螺旋」と呼ばれ、もともと投票行動におけるマスメディアの影響に関し、ドイツの政治学者イエレ・ノイマンが言い出したことであるが、このことはネット上の議論についても当てはまる。SNS上で、極端な意見が勢いを得て次々と「いいね」を集め、同調した意見が合流していく現象を「サイバーカスケード」という。カスケードとは、本来、螺旋状に落ちる滝を意味する。サイバーカスケードが大きなうねりとなり、少数派の意見が彼方に退かされるのはまさしく沈黙の螺旋である。

 沈黙の螺旋の怖いところは、本当は少数派で虚勢かもしれない架空の「大きな声」が実際の大勢派に成り上がってしまうことが多々あることである。

 人は必ずしも本心を表明しないため、その場で表明される他者の意見がその人の本心であると錯覚し、本当は皆が違うことを考えているのに、表明された意見が事実上の「多数派」を構成し、結局人々がそれに従ってしまう状況を心理学では「多元的無知」という。例えば、赤信号で大勢の人が立ち止まっていたとする。車も来ないので、ある人は、一人なら道を渡ってしまうところ、他の人が信号を守っているので、自分も立ち止まっていたとする。実はそこにいる人のほとんどは、一人なら信号を無視して道を渡るところを、「他の人は法を遵守するんだ」と思って結果的に全員が渡らずに信号で立ち止まっているような状況である。

 沈黙の螺旋も、実は多くの人が「少数派」の意見を持ちながら、他者が「大きな声」に同調しているように見えて、単に黙っているだけかもしれない。こうして人々の実際の意見分布を必ずしも反映していないかもしれない極論が、虚構の世論を形成する場合がある。例えば、コロナ禍でのマスクも、実は多数が効果なく面倒だ、と思っていたのかもしれない。しかし、それを表明することで批判されるのを恐れ、口に出さないでいるうちに、マスク着用が当たり前になり、それを是とする方向に自分の認識も変容していく。メディアの影響が、自分には直接及ばないが、他者には大きく作用している、と考える傾向を「第三者効果」と呼ぶ。そして、時間の経過とともに、結果的にも自分も他者に同調して、メディアの影響を受けた行動をとってしまうことがある。沈黙の螺旋が、多元的無知の状況であっても、結局は人々の意識や行動が、「大きな声」に同調して変容することがしばしば現実もありうる。そこにデマゴーグの跋扈を招来する危険性が存在する。

 ネット上で分極化が進む要因は他にもある。ネットは自分からコンテンツや他の人の意見に接していくアクティブなメディアである。つまらないサイトや動画を見る必要はない。自分と方向性の異なる意見には近づかない、あるいは過小評価することが多い。いわゆる、「認知的不協和」の回避である。その結果、思考傾向が似通った、あるいは影響を受けてきたブログを好んで閲覧し、自分の考えの枠組みに沿い、自分の考えに確信を与えてくれるX発信者のフォロワーになる。考えの似た者同士が集う言論空間で、互いに快をもたらすやりとりに終始し、都合の良い方向に議論が進んでしまう現象を音響検査室の共鳴になぞらえて「エコチェンバー現象」と呼ぶ。心地よい空間の中では当然、異質な意見は排除され、ネット上には、相交わることのない、いくつかの言論圏のモザイクが生成される。「小池は学歴詐称だ」、「蓮舫は台湾国籍だ」などの主張に賛同する人は、その種の方向性の主張だけがやり取りされる閉ざされたネット上の言論空間で自分たちの信念をより強固にしていき、それに対する反論には耳を傾けようとしない。ネット空間は、熟慮された意見が交換される民主主義の場になるどころか、その弊害を助長する契機をはらんでいる。

 Xなどのソーシャルメディアの特徴の一つは、時系列的にメッセージが流れるタイムライン方式をとっているところにある。そうした状況では新しいメッセージには注意が向くが、過去の発言を辿るのが面倒になり、冷静な議論の積み重ねに基づく検証が行われにくくなる。ましては、多くはスマホ画面で見るわけで、字数も限られる。たとえ字数に制限がないとしても、ぐだぐだした長文は嫌われる。そのときどきの身辺雑記の交換ならそれでよいとして、政治的な議論などは非常に浅薄で一時の感情に流されたものになってしまいがちである。ソーシャルメディアでのメッセージ交換では深い議論は難しく、話題も大きな持ち主の気分に応じて目まぐるしく変わっていくのである。

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