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【歴史小話】江戸の屋敷面積

江戸の都市構成

江戸時代、江戸の土地の約70%は武家地であり、残りの30%に寺社地、町地と百姓地を含む代官支配地があったそうだ。

正井康夫氏の「二万分の一”江戸の都市的土地利用図”」によると、江戸の武家地の内訳は、「大名屋敷地2,771ヘクタール(35.6%)一般武家屋敷地1,878ヘクタール(24.1%)」だったそうで、約600あった大名屋敷(上屋敷、中屋敷、下屋敷、蔵屋敷など)で江戸の三分の一以上の土地を占めていたことになる。

江戸城の石垣と堀

江戸城の内郭

江戸の中心部には江戸城があり、内郭と外郭があった。
江戸城の内郭には本丸、二の丸、三の丸、西の丸、吹上、北の丸、紅葉山、西の丸下曲輪などがあり、いわゆる江戸城の中心部だった。
内郭の大きさは、周囲約7.85km、東西約2.29km、南北1.85kmで、面積は約424.8haにのぼる。
皇居の外周を何度か走ったことがあるが、皇居外周は4.98kmで、北の丸や皇居外苑を含む内郭はそれより広い範囲だったことになる。

江戸城の内郭は、将軍の居城である本城(本丸、二の丸、三の丸)と、隠居した将軍もしくは次期将軍が居所とした西城(西の丸、吹上など)の2つの台地から構成されていた。
西城はもともとは、家康の隠居城として構築がはじまったが、征夷大将軍になり天下人になった家康は隠居城を駿府に移してしまったので、隠居城に実質的に最初に入ったのは秀忠ということになる。

ちなみに、小田原城の惣構の総距離は9kmあったが、面積となると約348haとなり面積の上では江戸城の内郭の方が広かったことになる。
そういった点でも江戸城スケールの大きな城だったと言える。

江戸城の内濠

江戸城の外郭

江戸城の外郭は城下町一帯を含めて外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだ、日本の城郭構造であり、惣構(そうがまえ)ともいう。
外郭は周囲約15.7km、東西約5.45km、南北約3.82kmがあり、面積約 2,082haは千代田区(1,166ha)の1.7倍の面積を有する規模だった。
惣構が完成したのは、三代将軍家光の治世である1636年(寛永13年)で、天下普請を開始してから33年の歳月が流れている。

内郭と外郭の間には、大名屋敷や町人街などの城下町が広がっていた。

大名の上屋敷の面積

大名屋敷は固定されていた訳ではないので、江戸時代の間に入れ替わったりしているが、上屋敷の面積が広い大名を順に挙げてみると、以下の様になる。

加賀藩(前田家)120万石 34.3ha
水戸藩(御三家)35万石 33.7ha
尾張藩(御三家)61万9500石 25.8ha
久留米藩(有馬家)21万石 8.2ha
紀州藩(御三家)55万5千石 8.1ha
福岡藩(黒田家)52万石 7.0ha
彦根藩(井伊家)30万石 6.6ha

いずれも20万石以上の国持ち大名であるが、
水戸藩が尾張藩、紀州藩よりも屋敷面積が広かったのは、水戸徳川家が参勤交代のない「江戸定府」だったことが影響しているのかもしれない(このあたりは調べきれてないので、確認出来次第修正する)。
なお、加賀藩、水戸藩、尾張藩の上屋敷があった場所には、現在、東京大学、後楽園、防衛省(市ヶ谷)がある。

ちなみに、武道館がある北の丸公園は、19.3haだそうで、加賀、水戸、尾張の上屋敷の広さが突出していたことが分かる。

皇居外苑から眺めた東京のビル群

紀尾井町の語源の大名屋敷の広さは?

紀尾井町の語源は、紀州藩の上屋敷と尾張藩、彦坂藩(井伊家)の中屋敷が固まっていたためについた地名だそうだ。
三藩の屋敷面積を合わせると18.7haの広さがあった。

ちなみに、紀尾井町は江戸城の外濠の内側にあったが、外濠を隔てた外側の現在は迎賓館になっている場所は、江戸時代には紀州藩の中屋敷があった場所で、44.6haの広さを有した。

御三卿の屋敷

御三卿(ごさんきょう)とは、徳川吉宗が創設した徳川将軍家の一門で、将軍家に後嗣がない際は後継者を提供したほか、御三家をはじめ他の大名家へも養子を供給する役割を果たした。実際、一橋家から第11代将軍家斉と第15代将軍慶喜が選定されている。

田安家一橋家清水家の御三卿は、屋敷地の近くの御門の名から家名が付けられ、賄料領地として各10万石が与えられていた。
田安家と清水家の屋敷は北の丸に置かれ、一橋家の屋敷は大手前に置かれた。
いずれも内郭の内側である。

御三卿の屋敷面積は、
田安家 4.6ha
一橋家 5.9ha
清水家 4.7ha
だった。
ちなみに、清水家の屋敷面積は、東京ドームの面積とほぼ同じ広さだ。

スカイツリーから眺めた東京

郊外の屋敷地

上屋敷は江戸城周辺に置かれたが、中屋敷、下屋敷ともなると、郊外に更に広い面積で置かれたりしていた。
主な屋敷地を挙げると、
加賀藩下屋敷 71.7ha
彦根藩下屋敷 60.2ha
尾張藩下屋敷 45.0ha
熊本藩下屋敷 34.0ha
などがある。
彦根藩の下屋敷の跡地は明治神宮になっているが、それ以外の下屋敷の跡地は纏まった単位で残ってなく、住宅地や病院、大学キャンパスなどになっている。
庭園だと、熊本藩の下屋敷の一部が肥後細川庭園となっているケースがある。

内藤新宿の名前の由来となった高遠藩(内藤家)下屋敷の面積は22.1haあり、新宿御苑の面積58.3haの38%にあたる。

明治神宮の参道

寺社地

江戸の寺社地は、江戸の土地の約15%程度あったという。
その中でも広大な敷地を有したのは上野の寛永寺と芝の増上寺で、現在の上野公園のほぼ全域がかつては寛永寺の境内だった。

寛永寺と増上寺の境内面積は、
寛永寺 100.8ha
増上寺 82.6ha
あったというが、この二寺で寺社地の約15%あまりを占めていたことになる。
ちなみに、浅草寺は25.6haあったらしい。

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