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【歴史メモ】鋳銭司と貨幣鋳造中絶の謎

958年(天徳2年)に鋳造された乾元大宝(けんげんだいほう)を最後に、日本では国家による貨幣鋳造が近世初期まで中絶した。
銅銭に関して言えば、1606年(慶長11年)に江戸幕府によって発行された慶長通宝(けいちょうつうほう)まで国家による貨幣鋳造は途絶えた。
中絶期間は約600年以上に及ぶ。
なぜ、貨幣鋳造は中絶したのだろうか?

鋳銭司

鋳銭司(じゅせんじ)は、古代日本に置かれた令外官の一つで銭貨鋳造を司った。ただし、臨時におかれた役所だそうで、必要な量の貨幣を造り終えると解散したという。
職員は長官((かみ)、次官(すけ)、判官(じょう)、主典(さかん)、史生(しじょう)のほか、鋳銭師、造銭型師、鉄工、木工、鋳手などの技術者で構成されていたそうだ。

初見は694年(持統8年)で、699年(文武3年)にもおかれたそうだ。
708年(和銅元年)の和同開珎の鋳造以降は銭貨鋳造が盛んになり、近江、河内、山城、長門、周防などに設置されている。
818年(弘仁9年)には長門国司を改編して鋳銭使とし、820年代には周防に設けられている。
特に周防鋳銭司は、長登銅山に近いという立地にも恵まれ、全国の鋳銭司の中で最も長い間貨幣の鋳造が行われたとされ、平安時代前半から半ば(820年代~950年代)にかけては国内で唯一の貨幣鋳造所だったとされる。
しかし、939年(天慶2年)に発生した「藤原純友の乱」で焼き討ちにあい、その後衰退していったと伝えられている。

貨幣鋳造はなぜ中絶?

一般的な考え方としては、「地方で産出する銅資源を統制下に入れておらず、貨幣を鋳造するだけの権力をもっていなかった」という考え方なのだろうが、「藤原純友の乱」で周防鋳銭司の焼き討ちにより、長登銅山に対する朝廷による支配が及ばなくなったということか・・・。
「長登銅山は12世紀にはいったん稼動が休止される」といったこともあるようだが、10世紀後半以降何が問題だったのか・・・。




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