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【江戸の風景】町駕籠と道中駕籠 ー江戸のタクシー

町駕籠

江戸時代、町人の生活が次第に豊かになってくると、江戸市中の町人も駕籠を利用したいという要求が次第に高まるようになった。
1675年(延宝3年)、幕府は町人が駕籠を使用することを容認し、駕籠300挺に限っての営業許可が与えられた。

町人が乗る駕籠は町駕籠と呼ばれた(武家が私用で乗ることもあったらしいが)。
担ぎ手は駕籠舁(かごかき)といい、駕籠屋に詰めて乗客を運搬した。

江戸市中で使われた町駕籠には4種類あった。
①引戸がある「宝泉寺(法仙寺)駕籠」
②左右に畳表を垂らした竹製の「あんぽつ駕籠」
③小型で、割り竹で簡単に編んで垂れをつけた「四つ手駕籠」
④四つ手よりやや大型であんぽつより簡素な「京四つ駕籠」

「江戸町触集成」によると、町駕籠は江戸時代を通じて常に繁盛していたわけではなく、何度も幕府の規制を受けてきた業種らしい。
18世紀初頭には、1800挺にまで町駕籠が増加した様だが、1711年(宝永8年)の町触で町駕籠を600挺に限定し、駕籠の棒に焼き印を押すことを義務化している。

1713年(正徳3年)には、300挺まで駕籠を削減。しかし、駕籠を大幅削減した結果、無許可営業が横行。

1726年(享保11年)、無許可営業の駕籠にも焼き印を押して認可してほしいとする陳情書が奉行所に提出された。
駕籠舁は当時の低層階級の日雇い人足が多く、規制を受けて仕事にあぶれた者は、違法営業に走らざるを得なかった。
仕事のない日雇い人足たちが犯罪に走りかねないことから、奉行所は陳情を認め、元締の駕籠屋が一定額の税金を収めれば、「勝手次第可致渡世候(勝手に渡世してよい)」と通達を出した。

こうして町駕籠の規制は撤廃され、営業は自由化された。

町駕籠の料金

町駕籠の料金は一里(約3.926Km)につき、400文だったという記述があるそうだ(道中駕籠の方はもう少し安かったようだ)。
現代の価格で換算するために、基準にされるそば一杯=16文で割り出してみる。
2022年12月の総務省の小売物価統計調査によると、東京都区部のそばの価格は679円となっている(全国平均は669円)。
16文が679円だとすると1文は「679÷16=42.4円」となる。
現在の貨幣価値に換算すると、42.4×400=16,960円ということで、約17,000円になる。
(総務省の小売物価統計調査で、そばの全国平均価格がこの8年間で84円(585円→669円)上昇していたことを改めて確認して驚いた・・・。以前は一文30円で計算していたのに・・・。)

支払いは現代のタクシーと同様、目的地についてから現金で支払うという形だったが、目的地に到着してから持ち合わせがなかったら困るので、乗り込む前に値段を聞き、駕籠舁と値切り交渉を行うこともあったようだ。

ところで町駕籠の料金は全額、駕籠舁に入る訳ではなく、7~8割は元締の駕籠屋が取ったことから、一人の駕籠舁に入る収入は1~1.5割に程度にしかならなかた。
1里走っても40文~60文(1,680円~2,520円)にしかならないとは、人足にとっては重労働の割に薄給の厳しい仕事だったと言える。
駕籠舁は1里を40分から60分で走り、1日の走行距離は6里程度に達したようだから、1日働いて1万円から1万5千円の収入ということになるが、かなりの重労働なので毎日は働けなかったのでは・・・

一方で、駕籠舁は酒手(さかて)と呼ばれるチップを要求することもあったようだ。酒手を渡すと駕籠舁は気持ちよく走ってくれたようだが、しぶってトラブルになったケースもあったのでは・・・。
薄給を補うために酒手を要求してしまう心理も分らなくもないが・・・。

道中駕籠 

東海道などの街道筋には、道中駕籠と総称される民間の駕籠屋が存在した。
大別すると「問屋駕籠」、「宿駕籠」、「山篭」の3種類があった。

問屋駕籠」は、各宿場の問屋場を通して使用した。
駕籠舁の人数に応じた公定賃金を払って乗る武士専用の駕籠であり、使われる駕籠が2人担ぎの粗雑な駕籠であったことから、主に自家用の駕籠に乗った主人のお供の武士が利用したそうだ。

宿駕籠」は町人が利用できる駕籠で、標準的には垂れのない四つ手駕籠を使用し、料金は駕籠舁との直接交渉によって決められた。
山篭」は箱根峠などの山道区間専用の駕籠で、使われる駕籠も特殊な組み方となっていた。

宿駕籠と町駕籠の縄張り争い

品川宿の宿駕籠は宿場町が運営するもので街道筋でのみ営業し、江戸市中の町駕籠とは別物の存在だった。
品川の宿駕籠は、遊びを終えた客を江戸まで送るだけで、帰りに客は乗せない営業だった。そのあたりは現代のタクシーの営業エリアと同様だったということのようだ。

一方で、江戸の駕籠屋は品川宿まで町駕籠を走らせており、たびたび品川の駕籠舁人足たちと衝突したらしい。
理由は、品川の飯売旅籠屋は事実上の遊郭であり、江戸市中の者が品川まで駕籠を使って遊びに来ていたからだった。
江戸時代の宿駕籠にも、暗黙の了解のうえで街道筋という営業エリアがあった訳だが、江戸の駕籠屋がその区域を無視して縄張り争いが演じられた。

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