拙論「大国隆正と地域社会—播州小野を中心に―」について~『歴史で読む国学』によせて~①

前回まで連続して3回、『歴史で読む国学』の簡単な要約とその所感を書いてきた。今回から扱う章は、私の卒論と深くかかわるテーマであるので、趣向を変えて僭越ながら、拙論と『歴史で読む国学』とを対応させながら、なかば拙論の紹介をするといった格好でお届けしたく思う。

今回から数回、取り上げるのは、第7章から第9章である。それぞれ、遠藤潤先生、小田真裕先生、三ツ松誠先生が執筆されている。

時代は「ポスト宣長」の時期である。いわゆる本居門が広がりを見せると同時に、平田篤胤という新たな知の巨人が登場し、平田門が組織され、国学は大きくこの本居門と平田門によって牽引されることとなった。この時期の特徴として、国学が豪農商層に広がったり、藩権力の庇護を受けるようになったりと、幕藩体制と深く結びつく様相を見せることが挙げられる。それと同時に、革新的な勢力を生み出し、その熱気は幕末の変革への加速を促すこととなる。

拙論「大国隆正と地域社会—播州小野を中心に―」では、大国隆正を主人公に扱った。『歴史で読む国学』において、「隆正は、江戸詰めの津和野藩士今井家の出身で、文化年間に篤胤の許を訪ねた後、村田春門に入門し、一時期、昌平黌で古賀精里にも学んだ。文政末年に脱藩した隆正は、父が死去すると野々口に改名し、天保年間に妻子とともに大坂に移住する。それ以後、小野藩・姫路藩・福山藩で講釈をした。また、嘉永年間には、関白鷹司政通や水戸藩主徳川斉昭に謁見している。一八五一年に、津和野藩に復籍して藩校養老館の国学教師となると、自身の学問を「本学」と称すようになった。」というように紹介がなされている人物である。取り上げ方としては、津和野藩による国学の振興に関連しての登場といったようである。

私の関心は、隆正と地域有力者(豪農商層)とのつながりだった。まさに本書で「地域社会では、村役人層および豪農商層による、地域の課題を解決するための広域的な連携が見られた」時代だとされる天保年間から嘉永年間にかけての隆正の活動を、小野藩を舞台として分析した。

本稿では、なぜ「大国隆正と地域社会」というテーマを設定したのか、大国隆正研究の研究史を整理して、ご提示できればと思う。

大国隆正に関する研究は、戦前より一定程度蓄積がなされているが、その全体的な傾向については、隆正の思想確立期以降の著作の分析の多さが目に留まる。このことは、確立された隆正の思想を明らかにする研究の蓄積が、すすんでいることを意味する。特に1980-2000年代にかけて論考を多く出され、『大国隆正の研究』(大明堂、2001年)で隆正研究の到達点を示された松浦光修氏のお仕事は目を見張るものがある。一方で、隆正の思想形成期にあたる天保~嘉永期についての研究は乏しい。近年、松浦氏の成果があるものの、依然として未開の研究領域といえる。

では、なぜ隆正初期の様相について研究がすすんでいないのだろうか。これについては、隆正の主著の多くが、嘉永期以降に集中しているためと考えられる。また、松浦氏が指摘しているように、隆正に関して、残存する書簡の少ないことが、隆正の著作出版が活発化する以前の、隆正の思想形成期にあたる時代について分析することを、より一層難しくしている。そのため、隆正の活動を主題にした研究も少ないのが現状である。

総じて大国隆正研究を概観するに、その思想面を明らかにするものが多い。いわば、隆正の心(精神・思想)については、解明が進んでいるのだが、隆正の身体(行動)の様相、即ち彼の活動そのものについて明らかとする研究は、未だ課題の残る部分だと考えた。

上記の先行研究整理のうえで、私は卒業論文執筆の方針として、大国隆正の活動を、播州小野を中心とする地域社会とのかかわりの様相から探ることを目標とし、解明された事柄から、自身の思想伝播のために足で稼いだ思想家・大国隆正の全体像を把握するための「補助線」を得ることを、最終的な目的とすることにした。

次回、具体的な研究内容についてご紹介したく思う。

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