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Ikäheimo (2022) 「人間として承認(認識)すること、人間として承認可能(認識可能)であること:バトラーとマンから学ぶ」

Ikäheimo, Heikki, 2022, “Recognizability and recognition as human––Learning from Butler and Manne,” Journal for the Theory of Social Behaviour, 52(4): 579-594.(第3節まで)https://doi.org/10.1111/jtsb.12352

本論文は、承認論の研究者であるHeikki Ikäheimoがジュディス・バトラーとケイト・マンの「人間として承認すること(recognition as human)」に関する考え方を比較検討した論文である。本記事では問題提起部分にあたる第3節までの内容を紹介する。続きが気になる方はぜひ原著論文のほうにあたってみてほしい。

論文の冒頭で著者はバトラーとマンの考え方の違いを次のように論じている。

バトラーは承認よりも深いところに「枠組み(frames)」があると論じる。個人と集団はそもそもこの「枠組み」に照らすことで承認可能(認識可能 recognizable)なものとして現れるのだという。これに対しマンは、人間ないし人格として承認されることという観念の能力が重視されすぎており、人間のあいだで生じる残酷さや暴力を説明できない、と論じる。

(Ikäheimo 2022: 580)

つまり、バトラーは「承認に先行するもっと重要なものがある」と考えるのに対し、マンは「決定的に重要なものは承認の後に、あるいは承認の上に、存在する」と考えている(p. 580)。

第2節ではバトラーの考えがまとめられている。バトラーの考えの典拠として参照されているのは、Ikäheimo, Leopold & Stahl (eds.), Recognition and Ambivalence (2021)に収録された、バトラーのホネット批判である。著者によれば、「ホネットが彼の著作で分析している承認の形式は、バトラーが「承認可能性(認識可能性)」と呼ぶものを前提としている」(pp. 580-1)という理由によって、バトラーはホネットを批判している。

それゆえ、バトラーの「承認可能(認識可能)」であることの説明では、ひと(one)はまず人間として扱われねばならない(count as human)。そして、誰が人間として扱われるかは、「承認の枠組み(frames of recognition)」ないし「承認可能性(認識可能性)の枠組み」によって規定される(Butler, 2009, p. 5 and p. 36)。この概念は「理解可能性(intelligibility)」の概念と密接に関係している。それは「多かれ少なかれ(more or less:より多くの、もしくはより少ない)承認の権利を有している主体を差異化しつつ(differentially)生み出す、理解可能性の場である」(Butler 2021b, p. 46)。

(Ikäheimo 2022: 581)
(なお引用文中、Butler 2009はFrames of War、Butler 2021bは
“Recognition and the social bond: a response to Axel Honneth”である)

これに対して第3節では、マンの「人間主義」に対する批判が取り上げられている。著者によれば、マンは、Down Girl: The Logic of Misogyny(小川芳範訳『ひれふせ、女たち——ミソジニーの論理』慶應義塾大学出版会,2019年)において、「人間主義」の考え方を以下の1〜5のように規定している。

1. 「人間は自分以外の人間を人間として、すなわち、たんに同一種の他成員として同定する以上の仕方で見るか、もしくは認識[承認]することができる」。つまり、誰かを「同じ人間(fellow human being)」、「私たちが共有する人間性(our common humanity)」の一成員、「人格」として見るということである。
2. 自分以外の人間を人間として見たり認識(承認)したりすることは、「彼女を対人関係の文脈で人道的に扱う必要条件であるだけでなく、同時に、彼女をそう扱うよう私たちを強く動機づけ、またそのようにする傾向性をもたせる」。
3. 「人が他者を道徳上最も目に余るような仕方(ほとんどとがめを受けることなく、殺人、強姦、拷問を行なうなど)で虐待するには、他者を同じ人間として見ることができないことが、強力で、おそらくは必要不可欠な心理的潤滑油となる」。
4. 「歴史的に抑圧されてきた集団が、(…)同じ人間と見なされるようになるとき、道徳的および社会的進歩ははるかに生じやすく、おそらくは事実上それが不可避にさえなる」。さらに、特定の社会集団に所属している人々が「道徳上最も目に余るような形式での広範にわたる[…]虐待(ジェノサイド、大量殺戮、集団レイプ、組織的拷問など)の対象であるならば、これは、彼らが元来、完全な意味での人間として見なされなかったか、あるいはその後まもなく人間性を奪うプロパガンダによって、非人間化されたことによることが多い」。
5. 人々が上記のような仕方で虐待されるとき、「最も重要で直接的な政治目標の一つは、[…]彼らの人間性を他の人たちにたいして可視化することであるべきである」。

(Ikäheimo 2022: 581-2)
原著出典:Down Girl pp. 141-6/『ひれふせ、女たち』 pp. 194-8
カギカッコ内の引用箇所は日本語訳による

この「人間主義」に対して、マンは「人が人にたいして行なう最も卑劣な行為の多くは、他者が自分たちと共有する共通の人間性が顕在化するさなかに進行するのであり、じっさいのところ、たぶんそうした顕在化によって引き金が引かれているように見える」(p. 582)(Down Girl, p. 149;『ひれふせ、女たち』pp. 201-2からの引用)として批判を加える。人間主義では説明できない事例、人間主義の想定とは逆のことが起きている事例として、マンは、2014年にカリフォルニア大学サンタバーバラ校近くで6人を殺害し14人を負傷させた人物、エリオット・ロジャーを挙げる。

ロジャーの女子学生に対する憎悪は、彼女らの行為者性の認識によって動機づけられていた。(…)マンによると、ロジャーは「女性が力をもつこと、独立していること、そしてその精神の実在性を否定しなかった。むしろ、彼は女性がそうした能力を、彼を欲求不満にするような仕方で発揮することについて、[…]彼女たちを憎み、処罰することを求めたのである」。

(Ikäheimo 2022: 582)
原著出典:Down Girl p. 150/『ひれふせ、女たち』 p. 202
カギカッコ内の引用箇所は日本語訳による


以上のように、バトラーとマンは「人間として承認すること(recognition as human)」に関してかなり異なった見解を有している。第4節以降において著者は、「人格化(personification)」をキーワードとして、バトラーとマンの議論を統合する方向での理論的展開を試みている。

(コメント)
「他者を人間として承認(認識)するとはいかなることか」という、非常に射程の広い議論を扱っており、興味深い。recognitionという言葉の多義性をどう処理するかもポイントになる。第4節以降の議論の道筋をまだうまく消化できていないので今回は第3節までに紹介にとどめたが、まとめの部分の次の記述が印象的だったのでここだけ引用しておきたい(やや意訳している&訳が間違っていたらごめんなさい)。

(…)この[ロジャーに関するマンの]記述それ自体に異論はない。しかし問題は、人間に特徴的な性質やポテンシャルを持つものとして人間を同定(identification)ないし認知(cognition)するという、動機的に中立的な意味での認識(recognition)は、おそらく存在論的・倫理的に最も根源的なものではなく、それゆえここで最も興味を引く意味での承認(recognition)ではない。ロジャーは明らかに彼の意図した犠牲者たちを人間として同定していたが、おそらくロジャーは彼女らに対して、人格的な地位をしっかりと持った存在として目にとめるというような意味での承認を行ってはいなかった。ひとまず人間中心主義の懸念を脇においておくならば、ロジャーは彼女らを「同じ人間(fellow human beings)」として承認してはいなかったのだ、という言い方をしてもよかろう。

(Ikäheimo 2022: 591)

要するに著者は、人間としてrecognizeするという表現には「人間として認識(同定)する」という意味と「(人格的存在という意味での)人間として承認する」という意味があり、「人間として認識(同定)している」からといって必ず「人間として承認している」わけではない、と言っているのである。


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