ノータイトル

アイデンティティを様々なSNSで確立するような時代になってからしばらくたったような気がする。人々はなぜSNSをやっているのか。自慢だとか愚痴だとか、役に立つ情報だとかマネタイズだとかいうのだが、それはアイデンティティの確立という言葉に集約できるはずだ。

それは『変身』という言葉にも置き換えられる。『転身』のほうがさらに詳しい。人間は立体物である。立体物である人間を各SNSに『面』ごとに配置し、どの角度から見てもある一定の絵にみえるような面としてコーディネートする。そしてそれらを『転じ』切り替える。それは『多面』の『仮面』でもある。

しかし人間は本来そんなに能動的には生きられない。受動的に生きるほうが楽だし、受動態のときのゆとりというものが、人間の『面』の中の『質量』を充足させたりするものだ。『質量』には視覚的には意味がないが、長い年月他者と付き合う場合、その『質量』があらわになる。インターネットは視覚的なフィールドなので『面』が重要でその『質量』は必要ない。

受動的に生きたいはずの人々がアイデンティティの確立のために能動的になった場合どうなるか。残り少ない『質量』を薄くのばし『面』にしてレイアウトするしかなくなる。とっくに疲れてしまった人も多い。

なぜ私たちは視覚的な面の空間、質量においては虚空の場に画像や言葉を投げて満足するようになったのだろうか。様々な質量をその平らな形に変換し、貼り付けてゆくようになったのだろうか。それで得た私たちのアイデンティティは、いったい今後長い間、どうやって引き継げば良いのか。

確かにこのアイデンティティは大切なものでもある。とっておきたい。ただ、終わらなければ、取っておくことができない。なぜなら、続く限りそれは流れてゆき『面』になり続ける。終わったときにはじめて、『質量をもったアイデンティティ』として、このSNS上での様々な文章や画像、コミュニケーションが存在する。

例えば作家の山内祥太とこんな話をした。スマホの画面を見て操作している。操作しているあいだはそれは現実であり、デバイスの動きであり、動画ではない。しかしそれをキャプチャーして区切って終わらせたとたん、映像になる。あるひとつの終わりができたとたん、現在進行形のデジタルコンテンツは『映像』としてアーカイブされることになる。

アーカイブとはそういうものだ、誰だか忘れたが、『歴史とは、すべてを記録することではなく、歴史にある意図的な点を打つことだ』といった人もいた。それはある終止符を打つということだ。

終止符は自由に打てる。終止符は記録のために打てる。

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