ソフトやハード、奇跡

1.

街中でひとりで大声で話す人をみかけることも多くなった、電話をしているんだ。電話をしているということがわかるポーズというのが、耳に携帯電話をあてている、ということだった。だけど今はイヤホンをしながらイヤホンマイクで電話している人を多く見かける。ケーブルすらないBluetoothのイヤホンマイクをつけていたりする人もいるから、もう電話をしているのか、大声で独り言をいっているのかは一目で判別がつかない。自転車に乗りイヤホンで電話しながら向かってくる人などに遭遇すると、びっくりして何事かと構えてしまうこともある。

肉体と物との形で、何をしているかがわかことがある。筆を握って紙の前にいれば、絵や字を書こうとしているし、ヘッドホンをして体を左右にゆらしていれば、音楽を聴いている。しかし電話をしているという形は、少しづつ変わってきている。

そもそも昔から、なんで電車やバスの中で、電話をすることはよくないことになったんだろうって思ったことがある。車内の隣人と話すことは禁止されていないのに、なぜ同じ声量で電話をするとよくないことなのか。それはたぶん、怖いからなんだと思う。電話というのは別の場所の見えない人間と、声でやりとりをしている。彼岸の人間は見えないが、此岸の声はこちらの人間に聞かれてしまう。きっと誰しもが、自分には見えない相手と会話する人間を見たときに警戒するようにできている。それは向こう側で、自分には見えないなにかが進行していることに対する危機感、もしくは、動物としての行動に反する同種への恐怖なのかもしれない。

その不安を少し弱めるためにあった「電話のポーズ」は、きっともうすぐなくなる。そしてこの場にいる相手と会話するのと同じような体の形で、人間は向こう側の見えない相手とも会話するようになる。いつのまにか、そういうポーズの人を怪しいなんて思わなくなるだろう。それは文化に適応して人間そのものの価値観が進化したといえる。

ソフトウェア(内容や意味)とハードウェア(体や物や見た目)の関係性は、少しづつ変わっていく。私たちのソフトウェアとハードウェアの位置関係は確実に変化しつつある。前と違う場所にあっても、知らないうちに慣れていく。


2.


望んだことが起こることは、奇跡ではないと思う。望むとディティールが生まれる。それを実現するために、進む進行方向、実行するべき物事が生まれ、こなしていくと実現する。ただ、はじめに望んだことと少しまたはかなりズレた、違う位置にたどりつく。望む方向を目指し、望んだことが全くそのまま起こることは僕は今まで一度もない。それはたぶん、実行の途中で外的要因による誤算が起こるからで、その誤算を奇跡と呼ぶのだと思う。

ソフトウェアとハードウェアの位置関係は徐々に変化し、ソフトウェアは奇跡を事前に見つけられるようになっている。同じ日に生まれた赤ん坊、仲の良い友達の共通の友達、街で聞いた名もわからない音楽を作った人の名前は
すぐにわかるようになった。

ソフトとハードの位置が一緒だったときは、共通の友達がいる人に偶然会ったり、同じ誕生日の人に出会ったり、街で流れていた気になった音楽を作った人に偶然会ったりしたらそれは結構奇跡で、運命すら感じた。

だけどそういうものはだいたい、もうFacebookにあるし、wikipediaにある。未来にあるちょっとした奇跡は、もう結構インターネットに表記され、分布図にされ、過去になってしまっている。それに慣れてしばらくたつし、だからこそ生まれた別の奇跡もある。だからこそ生まれた別の奇跡があってよかった。

ソフトとハード、魂と肉体の位置関係のスタンダードが今と変わっていっても、奇跡がテクノロジーとともに生き残りますように。ソフトウェアとハードウェアの位置関係は変わっていってるけど、人間はまだしばらく、どっちも持っているので、どちらかがなくなったときのことは、僕はまだ考えないでいる。

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