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猫が発つということ

やることがないのでnoteを書きます

本当はあるのですが。
闘病中の老猫がいよいよ危ういということで「打つ手なし」との回答を得てお世話になった病院から連れて帰ってきました。担当医師の言うところでは「もって今日明日」ということでしたが、それを聞いたのが昨日で今日もひたすら寝ています。一度大きな痙攣が起こったので「ああ、とうとうか」と覚悟をしたのですが、そのあと老猫はスー…と眠り続けて日付けが変わりました。帰宅してからずっと老猫はリビングの中央で横たわっているため私も寝室ではなくリビングにあるソファで休むことにします。
やること(たとえば仕事)はあるのですが、今日はどうにも身が入らないので開き直って、ただぼーっとしていました。猫のことがなくても大体ぼーっと過ごしているので「単に猫を言い訳にしているのでは?」という気がしないでもないです。猫のためになっていたのかどうかはわかりませんが、飼い主として出来ることはやりつくしたつもりです。とはいえ、それもまた飼い主のエゴでしかないし猫のためかどうかなんて猫に聞かなきゃわからない。だけど猫に聞いてもわからないので、ああだこうだと理由を探して納得してるに過ぎないわけであるからして……ですので、今夜か明日くらいからはさすがに山積しているあれこれに着手します。でも、その途中で猫が逝くことがあれば一旦投げ出して猫にのみ意識を集中するかもしれませんが、そのときはどうぞご容赦ください(甘え)。

猫はまだ生きている

家の中でひとり、意識があるのかないのかわからないただ横たわり続ける老猫を見つめていても気がふさぐ一方なので文房具店に買い物に行き、喫茶店でアイスコーヒーを飲み、焼き鳥を買って帰宅しました。
留守にしている間に猫が旅立っていたら私は薄情者だろうか?とも思いましたが、身近な人に「そんなことはないし死に立ち会うことをそこまで重要視していないので気にしなくて良いと思う」と言ってもらえてだいぶ安心しました。たぶん、そう言ってほしかったんです。別に「家に一日中こもってるだけのくせに、この薄情者!」と言われても構わないはずなのですが、ついみみっちいことを考えてしまいます。でも意外と生きている。と書くと、いよいよ薄情な気がしてきましたが、これでも痙攣が起こるたび涙がこぼれたりしていました。泣いたところで何の役にも立たないというのに。今もうっかり気が緩むと泣きそうになるのですが、これは私の情緒のゴムパッキンが古びたせいで箸が転がっても泣く体質なだけです。そして「まだ意外と粘るのでは?」という生きっぷりなので文房具店に買い物に行き、喫茶店でアイスコーヒーを飲み、焼き鳥を買って帰ったというわけです。死に近づきつつある猫を悼みながら食う焼き鳥の味は旨いか?と、もうひとりの自分が問いかけますが旨いものは旨い。
しかし、老猫はもう何も食べないし飲まないし(差し出した水をひとなめしたときは驚いた)身体はどんどん衰弱しているはずなので、ここからまさかのV字回復は見込めない。それでもどこかで「意外とまだ生きるのでは?」と考えてしまいます。

(追記)希望的観測日記にお付き合いくださりありがとうございました。医師の見立て通り10月14日朝4時40分頃に息を引き取りました。

横たわる先生(猫の名前)
息があります
先生の肉球と爪


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