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たかこ先生のレッスン徒然日記vol.37『譜読みってなんだ?!』②

あっという間に2023年も終わろうとしてます。この12月は4年ぶりの海外、チュニジアを旅してきました。砂漠の朝日を見に行ったのですが、素晴らしかったので、こちらにも写真貼り付けておきます😊

チュニジア砂漠の朝日

耳で覚えて弾く 
いわゆる耳コピを全否定しません。
瞬時に音を聞き分けたり、旋律や和声の響きに耳をつけていく能力は楽器を弾く上では大事です。
ただし、「耳(聞く)」能力一択に頼ることになると、クラシック音楽の場合、楽譜という作曲家が残したものに重きを置く音楽では「目(読む)」や「分析力(観察する)」という能力が必要になっていくので、遅かれ早かれ壁にはぶつかりやすい。
よほどの条件が揃わない限り、一般的にはこれらの能力がバランス良く必要になってきます。それと音を創る(奏でる)ことはまた別の能力(テクニック)になってくるので、ここが混濁してしまうと努力と結果に解離が出やすくなります。ピアノは特にそれが出やすい楽器です。
やることが格段に難しすぎる。
なのに、鍵盤押せば(猫が歩いても)音が出る。このギャップが酷すぎる。。(笑)
あくまでも私見です。

たかこ先生の場合、耳を頼りすぎる譜読みだったため、一般的に必要な基本を身につけるためにピアノを弾く取っ掛かりにしていた耳を封じられたわけです。本当に大変で(笑)
でもいつかは脱出しなければならない。
それが出来なければ自分の行きたい学校を受験も難しい、と判断せざるを得なくなります。

その当時テクニックの勉強もほとんどしていなかったのでツェルニー40番からコツコツ始めていました。同門の同じ学年の生徒さんたちはツェルニー50番、モシュコフスキー、クラーマー・ビューローをガンガン弾いているというのに。比較するまでもないので逆に開き直ってひたすら前を向いて走るしかない。
それでも、受験までにはモシュコフスキーが普通に弾けるくらいにはなっていないといけないと言うのは漠然と分かっていたので、一週間でどのくらい譜読みできるか、1ヶ月、3ヶ月、半年でどのくらい進むかというバロメーターは必要になってきます。

ツェルニー40番が終わったのが中2の11月。1年半で40曲やったことになります。次はクラーマー・ビューローとありますが、50番と併用でした。

ツェルニーはテクニック課題がハッキリしていて、和声は極めて基本的な進行をします。

・テクニックが不足して弾けるまでには時間がかかっても、頭で楽譜を理解してなるべく速く「覚える」ようにする。

・細かいパッセージは音型を良くみて規則性を考えて指使いを整理する。

・和声はカデンツ(属7)を必ず確認する。
これは日によって探す和音を変えました。
ある日は長三和音だけ探してみる、短三和音、属7、それ以外、転回形だけピックアップこれを延々と繰り返しました。

細かいパッセージは不器用なのですぐには弾けないのですが、楽譜を分析しながら譜読みするうちに、苦手な部分も見えやすくなってきます。

文章にするとなんだかすぐに出来るようになりそうに読めますが、誰かに確かめて正しいかどうか尋ねられるわけでもなく、ホントに独学に近い状況で、毎度のレッスンで山のような注意を受けるたびに「これは合ってなかった、別の方法を考えないと」ということの繰り返し。
譜読みが困らなくなったと感じ始めたのは高校3年生くらい。

耳コピをやめて6年くらいはかかってます。

3歳前からピアノ弾き始めて10年近くほぼ耳コピでろくに楽譜も読まず、テクニック練習もしてこなかった人間が、そうでないやり方に馴染むまでに6年。

時間がかかりますね。。

でもそのくらい、先についてしまった癖を塗り替えていくのは難しいことでした。

それでも
今、振り返ってみると、耳の経験を先にしてしまったことに後悔はなく、むしろ良かったと思います。
聴音とは違う能力ではありますが、人の演奏を聴く習慣はそれがレコードであれ、演奏会であれ、これはこれで大事なことで、私の場合は海外の演奏家の演奏を耳コピしていくパターンでしたので、当然その演奏家の演奏の語法というものを真似していくわけです。一人ではなく何人も(ここはポイントです)
「聴く」分量はおそらく、皆さんがイメージされてる量より遥かに多いし、聴いてる時間も曲数ハンパなく多かった。
この経験を幼い頃にやっておいて良かったと思います。
こうしたことを身に付けていたことはもう少し先の時代になり、少しずつプラスに転じていく材料になっていきます。

当時は圧倒的に足りなかった目と頭をひたすら使う練習に集中していたわけですが、これは実際のところ早い時期からやっておきたかった。楽譜を見て頭の中で構築したことを指に伝える能力(初見)はもう少し欲しかったですし、身に付けたかったです。
中学生のたかこ先生にとって、ツェルニー先生の楽譜はテクニックも含めてあらゆる部分訓練のための必需品になっていきました。

頭で覚えようと努力してる時、ここで新たな問題が勃発します。
「暗譜」です。
これまで耳で自然に覚えていたものを、頭で覚えるようになっていくわけですが、これが本番恐怖症の第一歩になっていきます。

ドレミで覚える習慣がなかったところにドレミで覚えようとして、鍵盤との一致が瞬時に出来ず難しさを感じるようになってきました。
普通に育って来られた方にはなかなか理解しにくいかと思うのですが、ソラシ弾いてドレミと思いこもうと思えば簡単にできてしまう(替え歌のような感覚で)ので、ふと「あれ?今なんの音を弾くつもりだったのか?」と音名を思い出そうとすると途端に鍵盤がわからなくなってしまう。
そんなことを思う暇があったら、これまで通りにさっさと自分の頭の中にある音のまま、鍵盤のままに弾いてしまえば良いのに、「なんの音で弾いてるか」にこだわる余りに、次への判断が少しずつ遅くなりミスに繋がるようになってしまっていたのです。
緊張も加わって、よくある「真っ白」な状態で暗譜が飛ぶ。
これはとても厄介でした。

バランスを欠いた勉強のまま突き進んだ結果としての一つの姿です。
今のように探そうと思えばコンクールが山のようにあったり、ステージに立つ機会が多かった時代ではありません。
一つ一つの本番が「真剣勝負」そのものの時代でした。
こうしたプレッシャーが拍車をかけて、マイナスの部分にのし掛かっていました。
もともとの不器用さもあって毎日課題山積。
レッスンや毎日の練習で「音楽は楽しい」という気持ちはゼロでした。

いつもお読みくださってありがとうございます。
2024年もマイペースで投稿します。
気長にお待ちください😊


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