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クリエイティブにまつわる様々なことについて「自由な発想が大事だ」とか「豊かな想像力がないといけない」とか、色々なことが言われがちですよね。

一般的に、それらは思考や感覚的センスによって導き出されるものとして考えられ、自己啓発本やセミナーなどでは、思考法や感性の使い方だったりをレクチャーされることが多いのではと思います。

ビジネスのシーンやクリエイティブのシーンで、それらを活用することは大いに役立つし、素晴らしいことだと思いますが、個人的には、それだけではいけないなーと感じています。

上っ面の感性には芯がない

例えば、人物をデッサンする時、骨格を理解していないと、芯が捉えられていない、と指導を受けてしまうようなことがあるようです。

僕は、表現者にとって、大切なのは、芯を捉えることだと思っています。例えば、怒りの感情を表現する時、心から怒っていないと、それは人に伝わらないと思うのです。

思考法や感覚的センスにより導き出されることに、芯を捉えていなければ、それはやはり、上っ面の表現なのでは、と個人的に感じています。

そして、僕は芯が捉えられている表現に、心を惹かれるタイプの人間です。

心を大事にしたい

心って、目に見えないけど、めっちゃ大切なものだと思います。心も脳の一部ですので、勉強不足の僕は、それが脳のどの部分によって司られているのか、分かっていないのですが、

人の行動や表現のすべてを脳内のシナプスやニューロンにおける電気信号が司っているとすれば、心というものの、僕自身の定義は「合理的理性的な判断ではない電気信号」です。

僕は、それを大事にすべきだと考えていて、例えば、お金持ちで名声を得て、欲しいものはすべて手に入れた人が居たとして、その人が満足できないなー、と感じている場合、

やはり、大事にすべきは「合理的理性的な判断」によって、何もする必要がないその人が、満足できていないなー、と感じていることであって、その心に従うべきだと僕は思っている、ということです。

心はガチガチに固まったりするもの

豊かな心、って確か文科省系でもよく言われる表現ですが、この表現、もっと深堀りして捉えるべきだと、僕は心から思っています。

何かに感動したりすることで、人は心を育てていくのだと思います。所謂、感動データの蓄積によるデータベースが、「合理的理性的な判断ではない電気信号」の元になっているのではないかと思うのです。

しかし、感動データの蓄積によって生じてくる弊害もあります。

それは、感動データがある種のパターン性を見出してしまって、感動予測を立ててしまうことです。

これは、めっちゃ大きな問題が2つあります。

一つは、その感動体験が感動データとして蓄積されないことです。要は、同じパターンは不要だと脳が判断するということです。

もう一つは、その感動体験をデータベース上のあるパターンと同じだと誤って判断してしまうことが出てきてしまうことです。

長くなりましたので、続きは後編で書いていきます。いつも読んでいただいてありがとうございます。

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