見出し画像

38歳になりました。お祝いのお言葉をかけていただき、ありがとうございます。

さて、38歳になって初めての夜、ふと、変なことを考えてしまったので、そのことについて、残しておきたいと思います。

僕と妻の話

妻とは14歳のころに出会いました。それぞれ違う中学校のバスケ部で、その出会いは、試合会場で顔を合わせた程度のものでした。

僕と妻は同じ高校に入学し、卒業後、違う大学に通い、大学を卒業して、田川に帰ってきました。

お互いのことは認識しつつも、ちゃんと話をするようになったのは、大学卒業後、田川に帰って来てからでした。僕と妻は田川で再会し、付き合うようになりました。 

5年ほどの交際期間を経て、27歳の時に結婚しましたので、現在、僕と妻は、出会って25年、結婚して10年を超えています。

僕と妻と二人の子の遺伝子の話

38歳になった夜、娘と一緒に眠っていて、腕をポンポンと優しく叩いて寝かしつけていたのですが、娘の肌の質感が僕にそっくりだと感じました。

娘は身体的な特徴が僕に似ています。肌の質感、肩の骨の出具合、足の長さのバランスなどが小さい時の僕そっくりです。

一方で、息子は妻に、僕と娘と同じように似ています。

身体的な特徴については、娘は僕に、息子は妻に似ている一方で、性格などは逆に、娘は妻に、息子は僕に似ています。

娘ほ地道に独力するタイプで、感情的で涙もろいところが妻にそっくりです。一方で、ADHDの傾向がある息子は、同じくADHDの傾向がある僕にそっくりなのです。

二人の子の将来を想像する

その夜、僕は二人の子の将来を思い浮かべました。

二人は僕と妻の特徴をそれぞれに受け継いで存在しているので、僕は、二人が僕と妻の軌跡をなぞっていくことを想像したのですが、その時、僕は僕の記憶ではなく、過去の妻の姿を想像していることに気づきました。

つまり、僕は、僕の過去を妻の過去と混同していました。僕は僕の記憶の中の妻を見ていて、そこに僕は僕を想像することができなかったのです。

とても混沌としているなと感じました。

僕は僕の二人の子たちの将来を想像しようと、僕自身の過去を思い出そうとしたものの、僕自身のことではなく、僕の記憶の中の妻の姿しか思い出すことしかできず、そこに僕はいなかったのです。

二人の子の将来を想像するために、自分自身の過去を思い出そうとするが、その記憶に僕はいない。

この状態とその時の感情がとても不思議であり、この状態をなんと形容すべきか、と考えたのですが、僕は、幸せとしか言いようがないのではないかと考えました。

幸せとは何か?相対的か?絶対的か?

幸せは感情だと僕は思います。幸せとは、つまり「感じるもの」であると僕は思うのです。

その感じ方には2種類あります。1つは相対的に感じる方法です。

例えば、あの人より豊かだ、と他人と比較することで、人は幸せを感じたりします。また、あの時よりも幸せだ、と過去の自分と比較して、人は幸せを感じたりします。

もう一つが絶対的な幸せです。

これは表現するのが難しいのですが、なんとなく「幸せだなあ」と感じることかなあ、と思います。例えば、甘い物食べた時とか、誰かに愛された時とかですかね。

でも、これは、過去の経験に基づく判断基準が少なからず存在していることが多いので、もしかしたら、絶対的な幸せは存在しないのかもしれないな、と思ったりもします。

ただ、昨日、僕が感じたのは、そのどちらでもないような気がするのです。

自分の記憶に自分がいない。周りの人だけが存在している。

動画や写真を撮らないと、自分自身を客観的に見ることなんて出来ないから、当然といえば当然のことなのですが、その記憶には、僕が感じた喜びや楽しさ、苦しみや後悔などの感情はなく、ただ、妻の過去の姿と二人の子たちの未来がある。

これを「幸せ」という言葉以外で形容することが出来ない、と僕は思うに至ったのです。

つまり、これは、自分の欲求や感情よりも、自分以外の家族や仲間を大切にすることが、自分の幸せに繋がるということなのだと思いました。

僕の父と母、祖父と祖母は、38歳の時、どんなことを考えていたのでしょうか。多分、言葉にはしないが、同じようなことを考えていたような気がします。

長々と、変なことを書いてしまいました。

読んでいただいている皆様、いつもありがとうございます。良い一年にしようと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?