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百生吟子を水面に映す

※この文章は鉄道オタクの怪文書です
※電車の話の割合の方が多いです
※SSとかではないです
※Link!Like!ラブライブ「活動記録」等のネタバレを含みます




「私が好きなのは、ほんとは芸楽部で、スクールアイドルなんて名前じゃないんです!」

この一言のせいで、私の世界に新たな色が塗られた。もっと雑に言ってしまうならば、新しい沼に落ちた原因の一言、と言ってしまえばわかりやすいだろう。新登場して間もないキャラクターが、「他人」ではなくなってしまった。これは恐ろしい話である。当然だが私は女子高生ではないし、今までのラブライブ!シリーズにもあまり親しんでいるとは言えない。それが急に、私が常日頃から考えているようなことをメッセージとして投げかけてきたのである。

北陸本線。滋賀県は米原から、福井・金沢・富山と北陸の主要都市を結び、新潟県の直江津まで、353.8kmの長大な鉄道路線。これは現在においては、不正確な表現である。2015年の北陸新幹線金沢開業、そして2024年の敦賀延伸に伴って、新幹線と並行する区間は幹線としての役目を終えて、地域の輸送に徹するために都道府県ごとに分割され、新たな路線名を名乗っている。石川県内は「IRいしかわ鉄道」、富山県内は「あいの風とやま鉄道」といった具合だ。現在でも「北陸本線」を名乗っているのは、米原から敦賀までのおおよそ北陸のイメージとは離れた区間のみである。
結構単純な「乗り鉄」である私は、北陸本線が好きだった。電車に乗って旅をする感覚が味わえる路線だった。高速かつ高頻度運転の特急に乗るのも気持ちいいし、18きっぷで普通電車に乗っても、北陸の街を見ながら、サクサク走ってくれる。特に長岡にいたころは、実家のある大阪との行き来のために、使用する頻度も増えた。私は北陸に縁があるわけではないが、思い出深い路線である。
そんな私の思い出は、2024年3月、バラバラにされてしまった。新幹線の開業を素直に喜べなかった。北陸への特急列車はすべて敦賀止まりにされてしまい、残り僅かな区間だけとなった北陸本線は、風格が欠けているように感じられた。
一方で、IRいしかわ鉄道線などの第3セクター路線は、確かに路線名は変わったものの、走る線路が変わったわけではない。JRから受け継いだ線路を、JRから受け継いだ車両が走る。車両の見た目や駅の案内サインなど、刷新されたものもある一方で、路線そのものは間違いなく、私の愛した「北陸本線」だった。路線名と経営主体が変わったからといって、列車に乗ることが楽しくなくなるわけではない。まだ北陸本線の電車に乗って、北陸に向かおうという、そういう気持ちになれた。

故に百生吟子は、私の感情を言語化することができてしまっていた。本当に好きなのは「芸楽部」である。それを追い続ける、好きであり続けるためには、その歴史を受け継ぐ現在のクラブ「スクールアイドルクラブ」から感じなければならない。
鉄道オタクなんていうのは高尚な趣味ではなく、ましてキャラクターに自分のオタクとしての思想を重ねるのはおかしい話だと自分でも思うのだが、ここに化学反応が発生してしまった。

私はアイマスPの例に漏れず、蓮ノ空へと本格的に触れたのは「異次元フェス」である。このイベント自体について今更語ってもしょうがないので省略するが、初めて触れたこのコンテンツの楽曲は非常に心に残るものであった。私が参加したのは土曜日だけだが、「Holiday∞Holiday」がよく耳に残って、終わった後も脳内再生され続けていた。とはいえその時点ではあくまで表面的なものであり、深い嵌り方ではなかった。私は虹ヶ咲のアニメを高評価していた程度で特段ラブライブシリーズが好きというわけではないし、またVチューバー系の文化は苦手で触れてこなかったので、自分に向かないコンテンツだと思っていた。
104期のキャラクターが新登場した際も、ビジュアルが刺さるようなキャラクターはいなかった(私は現在でも、百生吟子のビジュアルはそこまで好きなわけではない)。一方で私の知人のうち何人かは、「高準は吟子好きそう」というような発言を残していた。彼女の雰囲気が三船栞子に似ているというような話はタイムライン上にいくらか流れていて、私は虹ヶ咲のキャラクターでは三船栞子が好きだということを公表しているためか?程度の考えしか浮かばなかった。表面的には、和装や方言といった"属性"は私の趣味に近いものではあったが、その程度でしかなかった。ただ、相性がいいかもしれないから、とにかく104期の活動記録の1話を見て欲しいという声が届いた(103期の活動記録をちまちま見ている途中である)。
そうして足を踏み入れた結果がこの化学反応であり、私は沼に急転直下することになってしまったのである。

活動記録を進めれば進めるほど、百生吟子と私は非常に親和性が高いという考えにしかならなかった。理想の後輩になることができず自蔑的になるようなところも妙に感情移入しやすかった。これはもう少し後になって知る話だが、8番らーめんの好きな味まで私と同じだった。「他人じゃない」と強く思ってしまうのは間違いであるので、困るぐらいだ。


「でも、思うんだ。それでもこの曲が今も伝わってるのは、みんな、この曲が大好きだったからだ、って。」

一つ、私の好きな列車を挙げよう。
列車番号3371M、直江津6:11発、快速長岡行き。
新潟県を縦貫する信越本線に何本か存在する、快速電車の1本である。現在では使用される車両も普通列車と変わらず、特別珍しい点があるわけではない。
この列車の特別な点。それは、大阪を深夜に出発し、北陸線を走り抜け、朝の新潟に到着していた夜行急行「きたぐに」の時刻を受け継いでいるということである。2012年に廃止されていた「きたぐに」は、新潟県内では早朝の移動手段としても用いられていたという面があったため、快速「おはよう信越」に名を変え、ほぼ同じ時刻が受け継がれた。今ではその名前もなくなり、ただの快速電車になってしまったが、それでも往年の夜行列車の血統を今に伝えているのである。
典型的な電車キッズの例に漏れず、幼少の頃の私はぼんやり夜行列車に憧れていた。その頃はまだ運転されていた「きたぐに」に、いつか乗ってみたいと思っていた。その日は来ることはなく、私が自分の意思で遠出ができるようになった頃には、既に北陸本線から夜行列車は消滅していた。長岡に移り住んだ時には、いつも「きたぐに」があれば便利なのに、と思いを馳せていた。
列車ダイヤの歴史など、文脈上の存在にすぎない。同じ区間で他の列車に乗るのと、見える景色や聞こえる音、五感で感じる情報が大きく変わるわけではない。けれど文脈を乗せることで、列車に連なる想いは増えて、私の移動は楽しくなる。私は「乗り鉄」をこんな風に楽しんでいる。

百生吟子にとって、"Reflection in the mirror"とはなんだろうか。おばあちゃんの、そして自分の愛した歌の成れの果てである。ただその曲を聞いただけでは、まったく別の歌としか感じられない。ただ、それが伝統的に受け継がれ、少しずつ作り変えられていったという文脈を乗せることによって、歌う意味が生まれる。日野下花帆は、「吟子が歌う意味のある曲を作った」わけではない。元から知っていた楽曲に対して、ただ形のない、楽曲の歴史という情報を乗せただけなのだ。そしてこれによって、百生吟子の見る世界は変わることになる。
不思議なぐらい、私の生き方とよく似ている。キャラクター飽和のこの時代、「オタク」属性を前面に押し出したキャラクターも無数に存在する。蓮ノ空においても安養寺姫芽は(雑なレッテル貼りではあるが)そういった造形であると言えるだろう。しかし一方で、私の「オタク」性を共鳴させたのは、百生吟子の「伝統オタク」とでも呼べる部分だった。

そうして私は、百生吟子が「伝統」と形容するものを、私も同じく愛しているということに気づいた。今までそう思ってはいなかったが、思い返すとそうだった。山陽電鉄の「高砂」「尾上の松」が歌枕を思い出すだとか、国鉄型車両の扇風機に残る「JNR」マークに郷愁を感じるだとか、「京急東神奈川」はしっくりこないと言って「仲木戸」と呼んでみたりだとか、相鉄伝統の直角カルダン駆動を平成まで受け継いだ9000系が好きだとか、E131系は番台区分を置き換え元の車両から受け継いでいるのが良いだとか、(鉄道に詳しくない方には何を言っているかわからないと思うが)私の"好き"は、かなり伝統を踏みしめることに意味があった。
それは町の歴史のようなわかりやすいものである場合もあるし、文字のフォントや番号の使い方など、ほとんど精神的なものの場合もあった。とにかく、私は過去から脈々と受け継がれてきたもの、という文脈が、好きで仕方なかったのだ。それを今まで言語化できていなかったし、自分でも気づけていなかった。

「好きってその気持ちだけで、どこでだって花咲けるはずなんだ」

何かを「好き」であることを、世界に向けて叫ばないのは大きな損失である。私は「詩想夜行」という同人誌を書いている(注:命名は私だが、スリーズブーケの楽曲とは無関係)が、これもそんな思想に基づいている。誰がなんと言おうとボロ電車に乗るのが好きなんだ。そんな考えで本を書きながらも、このコンテンツに対する「好き」はあまり言語化できていなかった。「蓮ノ空のこと好き好きクラブのみなさん」という呼称があるが、まだ少し恥ずかしいと思っている(こういう感覚も、百生吟子と親和性が高いなどと抜かす一因かもしれない)。
これは個人的な感覚に過ぎないし他人に強制するつもりはないが、私には楽曲に浅く触れている状態だけでコンテンツに対して堂々と「好き」を叫ぶのは難しいという感覚がある。今の私は、このレベルで沼っていれば安心して好きを自覚できる、という状態にある。何か基準があるわけではないが、好きであることに満足が行っている。この文章を作ったのはそれを言語化するためで、重い腰を上げることにはなったが、言語化自体はする価値があると思えた。大きな進歩だろう。

百生吟子と出会ってから、私の感覚や世界は大きく変わったような気がしているが、決して私を壊したわけではないと思う。私は、私のままでより豊かになれたのではないか。百生吟子がそうさせたのなら、彼女は本当に「スクールアイドル」なのだろう。花咲く、というのも難しい言葉だが、同人誌を書いたりクイズをしたりしている私はきっと花咲いているだろうし、それは好きなものを好きであれるからだ。少なくとも彼女のおかげで、幸せをひとつ増やすことができている。


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