親友

 私には高校1年生からの親友がいます。入学して同じクラスになり、机が前後だったことから友だちになり、もう60年以上になりました。このクラスが良いクラスで、卒業後も学年全体の同窓会には出なくてもこのクラスの同級会には出てくる仲間もいたほどです。このクラスの中心グループは2歳年上の同級生と親友も含めて5~6人でした。私は基本1人でいるタイプなのですが、親友にひきづられてなんとか外れずにいた感じです。確かに他クラスの人からも良いクラスだと言われていましたが、全員が結束していた訳ではなかったのです。卒業後も4人の男子で仲間となり大学卒業後もつきあっていましたが、他の2人は他界してしまいました。女子も何人かいましたが最近は殆ど会えていません。
 今回この文章を書こうと思ったのは、つい最近親友の妻が亡くなったからです。
 話は少し横道にそれますが、「親友の妻」と書くと違和感を感じます。昔なら「奥さん・夫人」等の尊敬語・丁寧語がありましたが、今は差別用語とされてしまいました。私も関わった同和教育の成果と言えるかも知れませんが、しっくりときません。同和教育に携わっていた時から感じていたことです。同和教育がいわゆる「部落差別解消」から全ての差別解消に舵を切り始めた頃です。だから、同和教育主任から外れたときに他校の国語の同和教育主任に、その事を言い「かなり多くの尊敬・丁寧・謙譲語がなくなったのは同和教育の悪い面ではないか。これからの同和教育の1つの方向として新しい言葉や概念を持ち込んで新しい尊敬・丁寧・謙譲語を作って欲しい」と言いましたが、その先生は「私はそうは思わない」と言われてしまいました。しかし私は今も豊かな日本語の一部が崩れたままだと感じています。
 話を元にもどします。この友だちは少し遠い他県に住んでいますので、コロナ禍の前でもそんなに会うこともなく年賀状のやりとりと私がPCで困ったときプロである彼に解決法を聞いたり、彼が不要のPC・部品等を分けてもらっていました。彼の実家がこちらにあるので家や田畑のメンテナンス・草刈りに帰ったときに会ったりしていましたが最近は年のせいもあり、あまり帰らなくなっていました。
 しかし、急な妻(しっくりこない言い方)の死で妻の実家もあるこちらによく帰るようになりました。2人には子どもがいませんでしたので、家・墓等のこともあったのですが、コロナが落ち着いてきたこともあるとは思います。先日も帰ってきていたので会いに行きました。こちらでやらなければならないこともかなり終わっていて、久しぶりにゆっくりと話をしました。当然昔の思い出話が中心でした。彼は私について、学生運動を初めいろんなことを楽しそうにやっていると感じていたとのことでした。そこで「私は蛙のようにじっと動かないで、目の前に面白そうな物が流れてくれば、それに飛びついていた。自分に合わなければすぐ飽きるから次の物が流れてくるのを待つだけ」と答えました。同じようなことを他の人にも言っていたのですが、その時は蛙ではなくサンショウウオでした。井伏鱒二の小説にある物です。著者は穴蔵に潜んで自我だけを肥大化させすぎて穴から出られなくなった自身のことを言いたかったのだと思いますが、私は積極的に動かない自分をこう表現しました。 
 彼は自分のことを何もせずに時代に流されて生きてきたと言いました。実際にそんなことはなく、大学で放送研究会に入り県民会館のアルバイト募集で放送のプロに出合い・のめり込み、留年までしてしまいます。卒業後は教授のすすめでその頃黎明期だったPCのプログラミングをする会社に入り、すぐ頭角を現して活躍します。その後世界トップのPC製作会社にヘッドハントされて今に至ります。だから周りから勧められているのは確かですが、その期待に応えられるだけの能力を持っていたということです。
 そして2人の結論は互いに好きなことをやってここまでこれたのは、良い時代だったと言うことやなでした。
 

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