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伯母のこと

今、生きていたら一体いくつになるのだろう。大正生まれ、没後もう十年以上の伯母のことである。母の10以上離れた姉で、戦前のまだ母の実家が経済的にもよかったころに育った人なので、戦中派の下の兄弟姉妹たちとの間にはずいぶん育ち方に違いがあったように思う(母の上の兄弟はだいたいそうである)。戦争前に結婚をして、離婚、そして田舎に戻り、ずっと県庁で公務員として、主に厚生関係の仕事をしていた。幼いころは母の実家で同居していたので、出張のたびにお土産を買ってきてもらっていた。休日は畑仕事をして野菜などを育て、昔のことだから肥料として人糞を入れた桶を、天秤棒に担いで、柿の木の周りに撒いていたこととか、夜の間に家に侵入してジュウシマツを飲み込み、籠から出られなくなっていた青大将の尻尾を素手で掴んで庭石にたたきつけていたこととか、今でもひょいっと手を伸ばしたら届くところにあるような記憶のまま残っている。そんな逞しい女ヘラクレスのようなイメージのあった伯母だけれども、幼いころは肉が大好きで野菜が嫌い、その挙句に脚気になった話、ピアノを奈良の中でもいち早く購入して弾いていた、という話も聞いた。長じて女子大で学び、結婚。そこから後に公務員になるまでの話は本人から聞いたことはたぶんない。そこだけすっぽりと抜け落ちている。意に染まない結婚だったのか、それとも、もともと結婚に向かなかったのか。戦争時代と重なっていて思い出したくなかったのかもしれない。白金台の、今はシェラトン都ホテル東京のあるあたりに住んでいたことや、空襲のときは蜂須賀侯爵家に逃げたことなんかは辛うじて聞いたことがある。

そんな伯母のことを思いがけない人から思いがけない形で聞いたのは伯母がなくなって2年くらい経ったころだった。異動のためこの地方にやってきた高齢の修道女からである。ちょうど行く先が通り道だったのでそのシスターを自家用車に乗せて、歯医者へお連れすることになった。神戸のミッションスクールの校長様だった方だった。どういう成り行きでかわからないけれど、シスターが奈良のご出身であることを聞いた。
なんとなくピンとくるものがあったので、どちらの学校でしたか、と訊くと、奈良女子高等師範学校(現奈良女子大)の付属校育ちでいらっしゃるとのこと。そこは母を含む、伯父伯母、うちの母兄弟姉妹の母校なのだった。

シスターはうちの伯母の小学校から女学校までずっと同級生だったのだった。こちらの地方に来られる際に同窓会の名簿を見て、手紙も書いたのだけど、とおっしゃったが返事はなかったらしい。そのころは伯母は認知症だったはずなので、と言ったけれども、伯母はたぶんその時代の友人知己との交際は断っていたのではないかと思う。今となっては何がどうしてそういうことになったのかはわからないのだけれども、奈良の娘時代の伯母と自分が知っている伯母の人物像には乖離がある。

そのシスターとはその後、ずっと年賀状のやりとりをしてきた。齢九十をはるかに越えて、まだまだご存命である。シスターが所属する修道会のどなたかの代筆の年賀状が届くようになったのはここ数年である。兄弟の最後の生き残りになってしまった母ももう伯母の没年にさしかかっている。自分も、もちろん年を取った。書いておかなければ、忘れ去られることを書いておきたいと思うようになった。伯母の名前は佐保。母の姉妹はすべて奈良にちなんだ名前がついている。春生まれだった伯母の名前は春の女神の佐保姫、奈良を流れる佐保川にちなんで名づけられている。




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