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僕には難病がある

僕には難病がある

僕には難病がある。ネフローゼ症候群という腎臓の病気を持っています。原因は不明らしい

それも一生治らない病気。
14歳の時に発症したので、もうかれこれ15年。
発症すると厄介で、身体中がむくみ安静を余儀なくされ、再発も多い。実際僕も7回目の再発。その時にこれを書いてます。

発症すると一生付き合わないといけない病気、完治という概念がない。薬を飲んで症状を落ち着かせてコントロールする。

発症当時中学生の僕は「なんでオレだけ、、」
って病気じゃない他の子達が羨ましかった
だけど、今はそんな事はない。

さすがに再発すると、えっまた…と落ち込むけれど、今までの人生を振り返るとこの病気があって今の自分があるって間違いなく言える。だから感謝さえしてる。

なので僕が今までどういう風に病気と向き合ってきてたのかを書いてそれを読んで、1人でも多くの人が今の生きる力になってくれたら嬉しいです

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以下は自分の15年の病歴をつらつらと書いてます。

中2の夏に病気を発症した
2ヶ月間の入院と言われた時は、正直ラッキーと思った。何故なら部活も休めるし、学校も1ヶ月休めるとそう思ったから。
実際に入院生活が始まると全くそうは思わなくなってた。
身体が浮腫みすぎて30キロほど体重が増えてしまい、血管が全く見えず点滴の針を何十回も刺され、何度も針が神経に触れて激痛に耐えた事。その後もベッドの上で完全安静にしてくださいと言われたので、トイレも1人で行っちゃダメだし、外出なんてもってのほか。どうしても動く必要がある時は看護師さん付きっきりで車椅子移動。
今思うと当たり前に毎日学校に通えて、友達と過ごせて、大好きな野球ができて、家に帰れる事がどんなに幸せな事か痛感しました。

当時はベッドの上で太陽の光も浴びれずひたすら生活し続けるのがキツすぎて、早く家に帰りたいとしか思ってなかった。

どうにか2ヶ月が経ち、念願の退院。
やっと元の生活に戻れると思った。けど2ヶ月全く動かなかった僕の身体から筋肉は全て落ちていて、階段登るだけで息切れがするそんな状態。
野球部に戻って、迷惑かけたみんなに恩返しなんて思ってたけど、そんな事も遠い未来の話のようでした。
ステロイドという薬を使っていたので、免疫力が下がるからと、当時電車通学だった僕は朝の満員電車に乗るのを禁止され、3限くらいからなら学校に行くことを許された。

まずは人間として普通の生活が1日1人でできるように慣れるまで時間がかかりそうな感じでした。

できていた事ができなくなるショックと、もう今までの自分とは違うという現実を受け入れるのが14歳の僕にとっては難しすぎました。

普通に1日生活でき始めれるようになり、部活にも復帰し始めたところで、再発。
再発が多い病気なので気をつけてくださいと言われていた。けど自分ならなんとかやり切れる、そう思った矢先の再発、約1ヶ月の入院。完全に振り出しに戻った。そんな感覚でした。
2週間は左腕に点滴を刺したまま、ベッドで安静生活。その後治療は順調ににいき、予定通り退院。案の定筋肉は落ち切って最初の退院後と全く同じ状態。20キロほど短期間で一気に減るので立ちくらみや、息切れ、歩くのがやっと。

当時プロ野球選手になりたいという夢を持っていた僕は野球に没頭し、甲子園に出たいという夢がありました。
病気があってもいける、その強い気持ちだけで、進学率も良く、甲子園に名を連ねている神奈川の名門高校に進みたい。そう思いました。
その時から受験勉強も開始。僕の通っていた中学は中高一貫校だったので、何もしなくてもそのまま高校に行ける事が確約されてました。受験をする人が誰1人としていないから
勉強してるのは僕を含めた脱獄組と言われてた数人のみ笑

甲子園に行きたい、その強い気持ちだけで勉強を続けられました。部活には行かなくなり、学校が終われば塾に篭り夜になったら帰ってくる、そんな生活をしてました。極度の疲れと、ストレスが再発の原因になる、そのように主治医の先生から言われていたのは分かっていたけど、ここでやらなかったら後悔する、その思いだけで勉強を続けました。しかし中3の夏を終えた頃、案の定再発をしてしまい、また1ヶ月の入院。今回はいい感じに来れている感じがあったのに再発をし、本当に悔しかった。

入院中勉強はほぼできず、安静生活。
戻っていた体力も落ちに落ち切った。

退院後も学校にはほぼ戻らず、入院中できなかった遅れた分の勉強をしようと必死になりました。
あっという間に試験当日、結果は不合格。
力及ばないのがテストを解いてる試験中から分かるほどの完敗でした。

結果希望の学校には行けず、滑り止めも落ちてしまい、高校浪人するかどうかの家族会議をするまでだった。
何とか二次募集で受け入れてくれる学校を見つけて入学。

高校入学後、野球部へ入部。
出来ることは全力を尽くしたいとは思って入ったものの、中学とレベルが違いすぎた。
練習量、選手のレベル、みんな上手いし、練習も毎日あってキツい。顧問の先生には事前に持病のことを伝えてはいたものの、もちろん特別扱いなんてされるわけない。
入退院を当時すでに3回は繰り返している体力も筋力も万全ではない僕の身体がその野球部の練習に耐えることはほぼ無理だともう分かっていた。
諦めたくないプロ野球の夢。でももう出来ないと分かっている自分。そんな時
「もう野球は辞めた方がいいですね…」そんなドクターからの一言。すごく悔しかった、おれならできる、絶対治して、野球もやり切ってみせる、口ではそうは言ってたけど、本当は出来ないと1番分かってたのは自分だった。16歳の時にその事実を認める事が辛すぎて、号泣したのを覚えてる

プロ野球選手の完全に絶たれた僕。その後は良い大学に行って親孝行をしたい。その思いから野球に注いでた熱を勉強にシフト。
中3の時から高校受験に向け勉強を始め、野球をやめたのが高1の終わりなので、勉強習慣を戻すことは当時そんなに難しくなかった。
たくさんの予備校へ通い、来たる大学入試へ向けて、勉強をしてました。
体調の方は部活を辞めてからは安定し始めていました。

学校生活も友達に恵まれて、バカやったり、学校行事に本気で取り組んだり楽しい思い出です。

そんな中入試の時期は刻一刻と近くなり、中3夏の時期を過ぎると受験ムードに。
僕も今まで以上に勉強に力が入りました。希望の大学などを決めて、模試を受けて、さらに勉強。その繰り返し。
残りセンター試験まで〇〇日といったカウントダウンが予備校などで見られました。
そんなセンター試験まで2ヶ月を切った冬先頃、ここにきて再発。約1ヶ月の入院。

また安静生活か、、病院で勉強できるからいいか、ポジティブであるためにそんなことを思っていました。

しかし、入院生活が始まると、そんな事には行かず、久しぶりの入院だったからか、薬への反応が変わり、毎日のように吐き気に襲われる始末。結果1ヶ月丸々勉強する期間が抜けてしまった状態

学校の友達が見舞いに来てくれた時は本当に嬉しかったな。
本当に頑張ろうって心から思えた

退院後も勉強を続けて試験日を迎えるも、高校受験の時と全く同じ感じでした。
完敗しました。
合格をもらえたところは1つもなく、頭をよぎるのは浪人。

個人的に浪人するのは本当に嫌だったので、何とか道はないかと調べたところ、行き着いた選択肢が専門学校。

聞いてみると語学系専門学校で、大学編入科を設けており、そこで2年学んだのちに3年次編入という形で大学へ、入学するというもの。
受験勉強をしている時から英語は得意だったし好きだったので、語学系の専門ということに関しては納得し、他にどうすれば良いかも全くわからなかったので、専門学校へ入学。

在学中の体調は比較的落ち着いてくれて、再発は一切なく、専門学生ライフを送る事ができました。

在学中は英語の授業が中心で英語力が上がり、もっと英語が上手くなりたいという思いが自然と強くなりました。

その後編入試験にも第一希望のところではなかったけれど、英文科の大学に合格を頂き、3年次に編入する事ができました。

大学でも英語を学び、夏休みや春休みを使って、海外に短期で留学する事も出来ました。
そこで見た世界は刺激的で、日本とは全く違う世界。人、文化、食、言語、街の雰囲気、全部が初体験、毎日一分一秒がとても長く感じた生活でした。

帰国後も大学生活をこなし、四年生になると皆が就活モードへ。僕も合同説明会などに足を運び、面接をして、就活をしていました。
しかし、何かしっくりくる企業もなく、周りは数十社面接に行ってきた、みたいな話を聞いてたけどそれをやろうとは思えなかった。

2,3社面接をした程度で就活を終え、結果内定をもらえたところは1つもなく終わりました。

しっくりくる企業もないのもそのはず、自分の心に本当にやりたいことを聞いてみると、もっと海外に行って勉強をしたいという声だった。

それをそのまま両親に伝え、23歳の時にアメリカの4年制大学へ入学。

自分が病気を抱えたまま長期間日本を離れることになるのはもちろん承知の上で、現地でドクターを見つければ良い。そういった留学エージェントの方の背中を押してくれた声もあり、すんなり決断できた。

自分がここまで勉強してきた英語が大学という舞台でどこまで通用するのかとても楽しみだった。
今まで辛い冬をたくさん乗り越えて練習してきた高校で甲子園にでるそんな気持ちだった。

心を躍らせながら迎えた初日のオリエンテーション。みんなの話している英語が分からない。自分が勉強した英語と全然違う英語を話してる。専門学校にも行き、大学にも行って英語を専攻してここまで理解できないの?
授業が始まっても、もちろん分からない。英語の勉強ではなく、英語で経済学やマーケティング、会計の授業がある。とにかく分からない、分からなすぎて何が分からないかも分からない。そんな状態になり、毎日アドバイザーと言われる一人一人につく相談役の人のところへ行った。

オールAをとって卒業する!と意気込んで行ったものの、宿題の範囲すらも分からない毎日。とにかく「ヤバい、これじゃ卒業すらも危うい」その言葉だけが毎日頭の中をぐるぐると駆け回っていた。自分を追い込んでしまっていて気づくと、再発の症状が…。

アメリカにいながらの再発。
渡米前に1番恐れていた事が起きてしまいました。
現地で治療を試みたのですが、すぐに治療が受けられる状態ではない事が分かり、日本に帰国する事を決意。

すぐに飛行機を取り、日本に戻ってきて入院。入院生活はもう慣れたものでした。点滴、安静。1ヶ月。退院。

それからは考えました。アメリカに戻るか、日本で何かしらの道を見つけるか。
けどやっぱりリスクを承知の上で、アメリカで学びたい。その気持ちが勝り、翌年の冬に大学へ戻りました。

それからはオールAでの卒業という目標はやめ、大学を卒業する、その目標へ変えました。もう少しリラックスしてハードルを下げて、現地での生活を楽しむことを意識的にしようとしました。

思い返してみると、再発した時は1人でいる事が多く、このままだとまずい。と自分1人で殻に閉じこもってしまっているような状況でした。

再びアメリカに戻ってからは、たまたまアジアや日本にすごく興味があった友達とルームメイトになれて、その子と極力一緒にいるように心掛けました。自然と人と関わるようになり、毎日笑い生活をする事ができました。
徐々にアメリカ生活にも慣れてその後は体調面では何事もなく過ごす事ができ卒業まで至りました。

今思うと、もちろん薬を飲む事はとても大事。だけど、もっと大事なのは人と関わって笑顔でいる事。それがあったから3年間のアメリカ生活を乗り越えられた、そう信じています

卒業式に両親が来てくれて、セレモニーに一緒に出席できた時は本当に嬉しくて、感動しました。病気がありながらも卒業できた!その達成感は今でも忘れないです。

それからは南米のウルグアイという国へ行く事に。アメリカ在学中にホセ・ムヒカさんという方のウルグアイ元大統領のスピーチを見てそれが衝撃で、この人に会いたい!行こう!というその勢いだけで、行きました。

現地で2ヶ月ほど滞在し、スペイン語学校に通いながら、機会を探ることに。
現地で情報収集をして農業学校を経営してるのでそこに行ければ会えるかもしれない。
Uberを使って行ってみると大統領選の真っ只中、政治活動を続けていた彼は忙しくあいにく時間が取れないとのこと。

その後は秘書の方のアドレスまで手に入れて、連絡までしましたがそこでは会えず。残りのウルグアイ生活を楽しむことに。

日本語学校でボランティアさせてもらったり、電気が通ってない大自然を観光したりとても貴重な体験をしました。そしてご縁で今の妻にも会えました。

それからは日本に戻り、引き続き本当にたくさんの人に支えられて生きてこれてます。

病気になると身体的精神的に苦痛で何もかもが嫌になるそんなことがあると思います。
でもそれは一時的な事。長い目で見ればその病気が何か自分にメッセージを伝えようとしてくれている。そう捉えられます

僕は病気がなかったら恐らく野球をずっと続けていて、狭き門を通り続ける苦しい人生を送っていたかもしれない。
海外に行くという選択肢に巡り合わなかったかもしれない。

僕もここ数年でやっと病気に感謝できるようになりました。病気があったからこう人生が上手く転んでる。留学という本当に人生を変える貴重な体験ができた。パートナーにも会えた。10年以上やっとかかってこうなりました。

僕のように難病を持っている人。それがあることで人生にディスアドバンテージを抱えているように思うかもしれませんが、そんな風に思っている人が全てではないということも知ってくれたら嬉しいです。

ここまで読んでくれた方々ありがとうございます。

皆様が健康で幸せな人生を送れますように。

吉田貴尚


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