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僕たちの平成が終わった。|「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を見て

感情が溢れてしまいそうなので、読書感想文から逸脱して、映画感想文を書きます。今週公開されたばかりの「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」。

ここから以下、具体の内容には極力触れないように、個人的な主観で鑑賞後数時間で思ったことを殴り書いたのですが、これから見るという方には、当然ネタバレになってしまうので、見ないでいただきたいと思います。


※TOP画は劇場で配られるパンフレットの一部分です。

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僕たちの平成が終わった。

「エヴァンゲリオン」という物語は、宗教や歴史に絡む壮絶な伏線の張られた緻密すぎる物語はさることながら、やっぱり平成という時代を、そしてその時代を生きてきた庵野監督その人の心の中をただただ見せてくれた作品だったんだということを今日をもって再認識できた。

旧劇場版、序・破・Qを経て、「エヴァンゲリオン」は「境界線」の物語だったと常々感じていた。碇ゲンドウ率いるゼーレがめざす「人類補完計画」では、人と人の境界線がなくなり、憎しみも争いもない、浄化された魂の世界が人類の最終着地地点として示される。

その「人類補完計画」を実現するための「サードインパクト」を起こそうとして、最後の最後で碇シンジは「悲しみのある世界でも、境界線がない世界よりはいいと思う」と言って、それを無理矢理に何度も止めてきた。

自分と他人を隔てる器としての身体。魂だけを取り込んでしまうエヴァンゲリオン。父と息子の距離。不在の母。海と陸を隔てる渚。人類の未来を巻き込んでまで繰り広げられる、ゲンドウとユイの超個人的な関係性。本質と容器のような対比、その境界線を行ったり来たり。劇中で描かれるそんな境界線に何度も納得したり違和感を感じたりしてきたのだった。

しかし、本作はまったく違う話。というか、異なる次元。「さらば、全てのエヴァンゲリオン。」と書かれたポスターの通り、最終的に描かれるのは、エヴァンゲリオンの存在しない(必要のない?)世界。

エヴァンゲリオンという存在は当然フィクションながら、劇中ではそれが当然のものとして描かれてきたため、まったく今まで考えたこともなかったが、エヴァンゲリオンというもの自体が存在しない世界、それを劇中で表現してしまったのである。

「エヴァンゲリオン」という物語の終焉にして、反復を意味する「:||」。その戻る先は一体なんなのだ、とずっと思っていたけれど、なんてことはない、エヴァンゲリオン自体が存在しない世界。これまでの全てを(受け入れることで)否定した先にある現実。14歳で時が止まることのない世界だった。

最後の最後では、父と子が武力による争いを捨て、対話による救済がなされる。呆気なくも。孤独を愛した男が、愛を知り・失い・再び孤独に取り憑かれた男が、対話によって救済される。その先の世界では、エヴァンゲリオンは必要なかったのである。

終盤に向けて、映画はどんどんと(映画の外という意味での)現実と虚構を行き来し始め、(途中からスタジオの中だったり絵コンテだったりが登場したくらいだし、)ついには全てを現実に帰着させてしまう。映画の中に没入してきたファンを現実に引き戻してしまったのだ。

しかも、これまでの物語をフィクションとして片付けることなく、現実への橋渡しを用意して、感傷に浸らせることもなく、本当に終わってしまったのである。

これは、(エヴァンゲリオンにパイロットが取り込まれるように)エヴァンゲリオンという作品に取り込まれた庵野監督自身の自らによる救済に見えたし、それによってようやく庵野監督は物語を終わらせることができた気がしてならない。

そうだ、冒頭で書いた通り、この映画によって、ようやく平成が終わったと思う。それはつまり、大澤真幸が「虚構の時代」と名付けた昭和終盤~平成初期という時代が終わったということだ。

フィクションに生きることを選んだ平成という時代の僕たちを現実へと連れ戻してくれた。いや、この終わり方からは、それしか考えれられない。これまであると思っていた境界線は存在しなかったのかもしれない。少なくても、見終わってまだ数時間の今はそう思う。

そして、結局のところ、この境界線と孤独の物語の本質は、今の僕にはわからないと思う。それは僕がまだ痛みを知らないからで、それはとてもとても幸運なことでもあるのだ。


(2021.03.13追記)

宗教学から考察したエヴァンゲリオンのnoteがすごくわかりやすくて感動したのだけれど、そこではつまり、父(ゲンドウ)と子(シンジ)と聖霊(レイ)の関係性に加えて、キリストと結ばれるマグダラのマリア(=マリ)のことが書かれていて、びっくりするくらいに関係性が腑に落ちた。

そんなことを考えていた時に、ふとニーチェが言った「永劫回帰」(私たちは同じところをループし続けるだけでそこから抜け出すことはできない)や「ニヒリズム」(絶対的な諦め)、「超人」(神が不在となった未来に存在し、私たちを救うとされる何者か)などのキーワードがそのまま当てはめられそうだなと思った。

ニーチェは「神は死んだ。私たちが神を殺したのだ」と言ったけれど(だからこそ神が不在の世界で、ニヒリズムに陥るのだけれど)、何度ものインパクト(=永劫回帰)を経て、神をその手で殺して自らが超人となろうとしたゲンドウに対して、最後は愛で持って永劫回帰を終わらせたのが超人なんかではなく単なる人間(=シンジ)だとすれば、それはニヒリズムを別の形で乗り越えようとした庵野監督なりのネオ構造主義とでも言える新たな救済思想なのかもしれない。

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