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それでも、生きているんだということ|「星に帰れよ」を読んで


佐々木俊さんの装丁に惹かれて買った「星に帰れよ」は、第57回文藝賞優秀作を受賞した16歳の作家・新胡桃によるデビュー作。それは、一言で言えば「言葉にしてくれてありがとう」という作品だった。

読んでいて、ストーリーだけでなく、もう今は思い出せない、言葉にできないような一瞬の切り取り方にいちいち感動をしてしまう。とくにクラスメイトに恋する男子高校生・真柴は馬鹿正直なほどにピュアで、夜の公園で告白のイメトレをしているところを見られ、それを「夜空求愛事件」と名付ける。日常が急にドラマになるのは青春そのものだ。


さて、この物語には、三人の登場人物がいる。なんでも見透かしてしまう大人なマユと、マユに恋をする馬鹿正直な真柴、そして、その二人をつなぐもう一人の少女・モルヒネ。最重要人物はこのモルヒネだ。モルヒネはクラスの中のおちゃらけキャラで、女子チームの中心にいる。

しかし、彼女にとってそれは作り上げている存在であって、本当の自分自身ではない。彼女はとても繊細で、それをかばうかのごとく、クラスの中での自分を演じており(人間失格の葉蔵みたいだ)、本当の自分になれるのは、一人で夜の公園にいる時だけ。クラスの雑踏と公園の静寂さ。作った私と、本当の私。その対比がとても鮮明に描かれる。


そこに着目すると、マユに恋する真柴と、真柴と付き合いつつもパパ活を続ける(!)マユという二人の関係はもはや全然頭に入ってこない。ほんとうはそこに、最初に書いたみたいな純粋さゆえの壮大なドラマがあるはずのだけれど、一番の関心はもはやモルヒネの心の行方になってしまう。

後半では公園で真柴と何度も出会ってしまうモルヒネ。一人本当の自分になれる場所を、馬鹿正直なクラスメイトが奪っていく。モルヒネの心の中はこうだ。

嫌だ、本当に嫌だ。小さい頃から拠り所であったこの場所が、私より真柴に似合っていたという事実が心底腹立たしい。

ある夜、そんな心から、公園で泣き出すモルヒネに理解を示そうとする真柴に対しても、モルヒネは突き放す。

「嫌だ、泣いてるから苦しい、笑ってるから楽しい、そんな程度の理解で人を見定め浅く生きてるお前に居場所を奪われた私のちっぽけさが憎い、嫌いだよお前が、この公園から出て行けよ」

しかし、このセリフには、とても違和感を感じた。何がって、ビックリマークが入っていないのだ。モルヒネは怒っているのか、そうだとしたらこのセリフはもっと大きな声になるはずだ。それとも、怒りのあまり声が震えているのか、はたまた怒っていないのか。

そして、この違和感のある描写を起点に、モルヒネの心は大きく変わっていく。作り出したキャラとしての「モルヒネ」ではない自分を見出した時、それでも自分は生きていけるんだということに気がつく。「推し、燃ゆ。」という本に出てくる「背骨を奪われる」ような感覚。それと同じなのかもしれない。

「『モルヒネ』でいたかった」

そう言いつつも、彼女はもう、戻ることができない新しい自分を見つけ、大人へとステップを進めていく。絶対が崩れ去った先にあるのは、それでもやはり「生」だった。この物語では、途中いくつかの重要な場面で「死」が出てくるが、その対極にある「生」をモルヒネは否が応でも感じてしまう。


この本を読み終えた後、偶然読んでいた「姉の友人」という漫画を読んでいて、同じようなことを思った。それでも、生きているんだということ。

こちらもメインで登場するのは三人の女性。自由気ままに生きる今日子と、彼女に恋をする中学生のるり子、今日子の親友でもあるるり子の姉。しかし、その誰もが、本当の恋を成就できないまま、大人になり、それぞれの幸せを見つけていく。あの時に恋い焦がれた「絶対」ではない今も、私たちは生きている。それは「星に帰れよ」を読んで残った感想とまったく同じだ。「姉の友人」の最後の方で、一番自由気ままで憧れられる存在だった今日子はこう呟く。

あたしが一番きらいなのは、いちばんほしいものが手に入らない あたし自身だ

誰も、人から見ている自分と、自分自身が見ている自分とは、同じではない。そして、他人である以上は、誰も、本当の意味で共感することはできない。それでも、生きていく。大人になっていく。「絶対」が崩れても、人生は続いていく。だって、僕たちはみんな「違う星に生まれた」それぞれの人生を歩んでいるんだから。


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