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アフター・ゆとり論

早いもので平成が終わってもうすぐ一年が経つ。クラウドファンディングを実施した「新・ゆとり論」(通称:ゆとり本)の発売&創刊イベントから早一年だと考えるとなんだか感慨深い。

「ゆとり本」では「ゆとり」を世代として捉えるのではなく、それが全世代に通底する思想の一つであって、バブル崩壊後の世代においてその特徴が表出しただけであるということを取材を通してまとめた。

加えて、行き過ぎた資本主義の結果として仕組まれたレールの外に溢れ出たさまざまな事象が自立し始めた正解なき時代の中で、中央集権型の構造が終焉を迎えてより脱求心的かつ流動的な世界へと向かうこと、その中で個の持つ力も主客の関係性も大きく変わっていることを考察した。その一つの表象があきらめと怒りに満ちた冷たい時代における「感情」という定量化できない指標による新しい関係の構築方法だった。

さて、令和を迎えて数カ月が経った頃、「ゆとり本」で書いたことがすでに自分の中からすっかり消えてしまっていることに気がついた。イベントなどに呼んでいただく機会も増え、「ゆとり本」について話をした時には数カ月前の内容が僕の中ではすでに過去のものになっていて、そこに対する僕の主張がほとんどなかったのだ。

それもそのはずで、現象を捉えてまとめた「ゆとり本」では意図的に主張を出さないようにした。解釈の余地を残して、それ以上の来たるべき将来についての言及は積極的に避けた。だから、それはすでに平成の写絵でしかなかった。勿論それは望んだことだったので、特に何か不満があったわけではない。ただ、その時に捉えた思想の一端のようなものの先には何があったのだろうかということはずっと気掛かりだった。しかも、日に日に社会が向かっている近い未来に対して、違和感を感じるようになった。

少し具体的に言えば、それは「わかりやすさ」に対する違和感だった。全てにおいて「わかりやすさ」が先行する時代。トランスパレンシーの名の下で、公平性と明確性が強調される時代。それ自体は素晴らしいことなのだが、その暗黙のプレッシャーが拾い上げるべき小さな声をどんどんとかき消しているような気がしてならなかった。お笑い芸人の誰かがコントの中で「正論ハラスメント」という言葉を使っていたが、そんな事態が起きていると感じていた。

「正論」という高い壁を前に、真っ当なもの以外がゆく先を見失い、生きづらさを増幅させている気がした。「正しさ」という仮面を被った偽善が、昭和の日本の縮図を加速的にリフレインしているように思えたのだ。「絶対的正義」など存在しないはずなのに、「多様性」という名の「単一思想」が無意識に世界を覆い尽くしているのではないかと。

そんな時代背景から、秋頃には自分の中で「にげる」という概念が気になり始めた。僕たちは今「にげる」時代を生きている。にもかかわらず、自己啓発の類では「にげる」というキーワードが軽んじて乱用され、本来の目的を失っている。安易に「にげる」と言うけれど、「にげる」って一体なんなのか、誰か考えたことがあるのだろうか。その頃に読んでいた浅田彰の「逃走論」も大きく影響していた。それから当分は「にげる」ということについて漠然と考える日々が続いた。だからnoteも半年間更新が出来なかった。

年明けにそんな話を友人にしたところ「日記形式でいいから思ったことを書いてみなよ」という助言をもらった。なんとなく、感じたことを書いてみた。ある日、スラスラと言葉が出てきた。意外としっくりときて、日々日記のごとく感じていることを書き連ねた。「にげる」ということについて、感情と関係性について、そして、官能を失った都市について。

そんな流れと並行するように、世界が大きく動き始めた。パンデミックによって、僕が感じていた違和感はみるみる大きくなり、世の中全体でもその変化が顕著になり始めた。社会は見たこともないスピードで塗り変わっている。

だから、そろそろ、今年に入ってから3カ月間書き続けた日記のような文章をまとめてみようと決心した。でも、それは単なる本にするのでは自らの意図に反している。もう「わかりやすさ」は捨てなければいけない。そこで、全く別の表現方法で書き続けたことをまとめてみることにした。編集もなしに。

いろんな方の協力を得て、とてもいいアイデアが生まれたと思っている。まだ最終系は見えていないが、面白いものができそうだ。とりあえずここに、今書こうとしている内容の見出しの最初のいくつかを記載しておく。

破壊と創造
都市の中の平衡感覚
ユートピア再考
仕組まれた社会
選択肢の多様性
普通であることの異常性
枠から外れること

にげてなどいない

これらがいつかなんらかの形に昇華された時には是非きちんと読んでほしいのだけれど、まずは今までの僕の頭の中を忘れないうちに殴り書いておいた。

平成の「ゆとり」から令和の「にげる」へ。これは多分、日記形式でまとめてきた、まとまりのない散文の塊である。そして、思想と言葉による表現の少し新しい編集の仕方であろうと信じている。


(以下には現時点で考えている全ての見出しを置いておく。今から作ろうとしているものが比較的資金を必要としそうで、しかしながら今回はクラウドファンディングなどの実施をしない方針なので、もし応援してくれる方がいればぜひご購入という形で見出しを見ていただき、支援をいただけると幸いである)

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