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非効率、それから対話に関する殴り書き|「大人の学校」を作るために vol.1

ちょっと前の「大人の学校」をやりたいというツイートに対して少し反響があったので、一応思いつきで発言したのではなくて、実はずっとやりたいなと思っていたという背景を含めて、今考えている「教育」にまつわる雑記を定期的に書いていこうと思う。


SNS社会における「気持ち悪さ」の露呈

「大人の学校」的なものに興味を持ったのは、違和感を感じたからだった。それは急にわかりやすい形で現れたのではなく、じわじわと浸潤するようにして、気がつけば現代に蔓延っていたような違和感、気持ち悪さ。

それについては、TOKIONというメディアで前後編に分けて書かせていただいた。ここでは特に、SNS社会における分断や反・反知性主義的な流れについてまとめた。

この違和感は日常のいたるところに潜んでいる。たとえば、少し前の都知事選に向かう一連の動向は酷いものだった。無知礼賛をいいことに、民主主義の意味を履き違えた、目立った者勝ちのような様相を呈している。それは候補者だけでなく、有権者もである。しかも、誰もがただ叫び合うだけで、民主主義の本質でもある対話はそこになかった。

たしかに、人は直感的で効率的な方になびきやすいから、目立つ者がすごいと思われがちだ。しかし、真面目に粛々と成果を出す者がいることも忘れちゃいけない。民主主義というのは、見る側の視座も平等にしなきゃダメなわけだ。ただ、それには疑う力が必要で、これを臆すると知はさらに終焉へ向かうと思う。

6月に遊びの延長で制作した「ESCAPE!」という人生ゲームのような本の中で「知性なき感情時代」ということを書いた。これまた関連しそうなので、少しだけ引用しておきたい。

論理的な指標から、感情をベースにしたこれまでにはない価値基準が生まれることは相違ないが、注意したいのが「理性よりも感情が大事だ」ということではないということ。すなわち、感情を解放すること、その直感のままに生きることが必ずしも正しいとは言えないのである。そこでは、知性が前提となる。知性なき感情論は負のエントロピーを増大するだけである。

内田樹は2月1日のブログ(http://blog.tatsuru.com/2020/02/01_1152.html)で「桜を見る会」に触れ、最後にこのように締められるている。

「この成功体験(注:首相が非合理的な理由を盾に責任を逃れること)が広く日本中にゆきわたった場合に、いずれ「論理的な人間」は「論理的でない人間」よりも自由度が少なく、免責事項も少ないから、生き方として「損だ」と思う人たちが出て来るだろう。いや、もうそういう人間が過半数に達しているから、「こういうこと」になっているのかも知れない」

ここで語れられる感情論はあくまで知性なき感情論の話であって、それは非常に由々しき事態と呼べるだろう。人々は知らず知らずのうちに知性を失い、自らを貧しくしている。そしてその流れはもう止まらないだろう。

まさに現代はハンナ・アレントが語った「本当の悪は平凡な人間による凡庸な悪である」というような事態に瀕しているわけである。


効率的な学習に対する「大衆の反逆」

資本主義経済の中において、社会は基本的に効率化の一途を辿っている。効率化の先にはもしかしたら「知の終焉」なるハルマゲドンが待っているのかもしれないが、前提としてこの流れを止めることはまずもってできないだろう。

それは学習においても同じこと。たとえば、なにか気になったことを調べる際に、本屋へ行って関連図書を探し、その中から関連する部分を読むよりも、iPhoneで検索ワードを入力して“ググる”方が楽である。こうした感覚はとくに平成生まれのわれわれにとっては自然な感覚として染みついてしまっている。我々が答えを知ることは容易い。

しかも、知りたいことは世の中に山ほどある。情報化社会がさらに拍車をかける。それが幸か不幸かは別としても、われわれは一生かかっても知り得ないほどの情報に囲まれて生きているのである。

とはいえ、この流れ自体は決して悪いものだとは思わない。たとえば、哲学について学びたいのであれば、書籍だろうがネットだろうが動画だろうがいろんなものに触れてみればいい。

問題は、それの受け入れ方である。どんな情報をどのように受け入れるのか。やはりそこには「知」が必要だと思う。「知」という抽象的な概念を説明するのは難しいが、大量の情報に曝露され続ける中で、一部に対して、しかも直感的になんらかの感情を萌芽させるためのフィルターのようなものだろうか。そのフィルターの形成の仕方は人によって異なるだろうし、それを鍛えることこそが「学習」なのかもしれない。

しかし、効率的な学習などこの世には存在しない。というのも、本来の学習とは、実践と失敗から自ら学ぶ非効率的なものだからである。星の名前を覚えるためにただ図鑑を見るんじゃなくて、(親に無理を言って)望遠鏡を買ってもらって夜な夜な星を眺めて自分だけの図鑑を作ったような経験が今でも頭にしっかり入っているというようなものを学習と呼ぶのかもしれない。

にもかかわらず、一般的に学習だと考えられている義務教育におけるカリキュラムというものは、単なる受験のための暗記でしかなかった。あれは学習なんかではない。それに気がついたのは大学の頃だった。

わたし自身は東京大学の医学部健康総合科学科というところを卒業したのだが、そこで学んだことがいくつかある。「まずは疑うこと」「答えではなく根本的な問いを考えること」「わからないこと、太刀打ちできないことは必ず存在するということ」。これらは教科書的な勉強においては、身につけることがなかなか難しい。

これらを思い返しながら、「学習の効率化・均一化」というディストピアを回避するためには、定められたシンギュラリティへの道を外れるより他にはないと考えた。「大衆の反逆」である。「効率化」に対して、異を唱えてみるのである。私たちは今一度「非効率」に対して、価値を見出すのだ。


「わからないこと」を考える場を作る

もう一つ重要なことが「対話」である。まさに最初の記事で書いた「繋がる」ということだ。人々は日々のなかで感じるあれこれについて、敬意を持って、フラットな立場で対話をし、違和感を見つけ、互いに教養をつけていくべきなのである。これが「大人の学校」の土台にある気がする。ただし、興味の対象はなんだっていい。生きていくために必要でなくても、全く無駄だと思われるようなものでも、楽しくて、好きであれば、なんだって勉強はするべきだ。我々は「非効率」を礼賛する。

そこでは、年齢や科目という分断をなくし、偶発的で流動的なトピックにしたがって議論をする。教える・教えられるのという関係性は排除する。大事なのは対話だ。そして、一切の合理性・効率性は求めず、当然目的も定めない。ただし、敬意をもって、面白がること。

ただ本を読んで問題を解く机上の空論タイプの勉強ではなく、話をしたり何かを作ってみるなどの実戦形式の方法をとる。これは重要だと思う。一般的な教養や勉学が養老孟司のいう「脳的」な思想になってしまいがちなので、「野生の思考」を大切にすべきだと思う。

その際に、専門知はなくていい。ただし、無知を礼賛してはいけない。リスペクトこそ対話の前提だ。スペシャリストの知をジェネラリストなりに解釈しようということだ。養老孟司は自著「人間科学」のなかで、「専門家の集合の短所をいうなら、総合性を欠くことであろう」と書いている。つまり、なんの専門家でもない私たちは、ある意味でなんの主観も持たずに専門性を超越できる可能性を持っているのではないかと思うのだ。

翻せば「わからないこと」もとても重要なことだ。「わかる」ことよりも大切な瞬間かもしれない。いくら言語が発達しようが、他人は他人である。わかりあえないことは絶対に存在する。だから、ここではむしろ「わからなかったこと」を大切にしたいなと思う。これは養老孟司さんの「唯脳論」を読んで一番に感じた感想だった。彼はわからないこと、知らないことを著書の中でも素直に認める。そのあっさりとした態度に衝撃を受けつつも、これこそが本当の知識人だなと理解した。

だから無論、間違ってもいい。最近は特にSNSにおいて間違ったものを正義の名の下で抹殺するような現象が多発しているけれど、それは結果として気に入らないものを排除する(もしくは失敗をただただ消費する)だけの無意味で勝手な行動に過ぎず、本当は失敗から学ぶことに対する寛容さを持ち合わせたいと思う。


サプリメントのような教育

かつて、バウハウスという学校があった。ナチスの影響が強まるドイツにおいて、新たなデザイン思想を打ち立てようという活動としての教育で、彼らは経済とアート、デザインと機能を融合しつつ新たな時代に向けたクラフトのあり方を模索した。

奇しくもナチスの影響下で組織自体はすぐに消滅してしまったが、そこから生まれた思想は今も世界中のデザインに影響を及ぼしている。今またバウハウスのような、思想ある、自発的に発展していくような学びの場が必要だろう。

ちょうど教育をやりたいという知人とお互いの話をしたところ「補える場所が必要だ」という言葉を聞いて嬉しくなった。その感覚はすごく近い。世の中にはすでにいろんな教育方法があるが、ぼくが(ぼくらが?)作りたいのは、それらとは別の選択肢だ。選択肢があることで、人は豊かになる。それは教育おいても変わらないだろう。

そして、僕もその人も、既存教育の選択肢では補えない部分を補う「サプリメント」のような教育を目指しているのかもしれないと感じたのだ。(本質的には栄養バランスが完璧な野菜の摂取方法を考える教育をやるべきなのだろうけれど、それには既存教育との折衝が発生する。まずはインスタントに作られた教育を補えるサプリメントのような教育を目指すべきなのかもしれない)

ここまでつらつらと書いてみたが、ここで千葉雅也さんの「勉強の哲学」という本を紹介したい。そこには、僕がここまで考えていることに対してほとんど答えではないかというような内容が書いてある。

曰く、まず、勉強とは「自己の破壊である」。「賢くあろうとする」自己を転覆させ、来るべきバカになることである。そのためには、ユーモア(ボケ=ズラすこと)とアイロニー(ツッコミ=批評すること)によってもとあるコードを拡張・破壊する必要がある。加えて、どこかで拡張を「切断」する必要がある。それはあくまで継続する学びにおける「中断」に他ならない。

そうだ、これがやりたいのだと思う。自分がやりたいことの本質は、すでにあるモノゴトを批評し、ズラし、程よいところで中断すること。これこそが「大人の学校」でやるべきことだろう。

これに則れば、まずは「すでにあるモノゴトを批判し、ズラす」ための場所を作り、そこで広げに広げた対話を中断するための「ルール」を作る。この二つだ。「場所とルール」。すごくシンプルで、楽しそうだ。ちなみに現時点では「にげる本」を一緒に作ってくれたデザイナーの檜山ちゃんとボードゲーム・クリエイターの山本くんとともに、この企画を考えている。引き続き仲間を募集していこうと思う。

当然まだまだ、考えなければいけないことはある。こうした場を作ることで、とはいえ最終的に世の中に対してなにを訴えかけたいのか。そもそも、訴えかけるべきなのか。マイノリティを目指すのかマジョリティを目指すのか。それは単なる思想にとどまるのか、活動となるのか。

不明瞭なことはたくさんあるが、最初から明快にするよりも、わからないまま進んでみる方がいいのかもしれない。ひとまず、ここでは「大人の学校」なるものを作るとした場合の基本理念に近しいことを殴り書きのような形で書き記したところで、第一回を終えたいと思う。

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