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#162 Pierfrancesco Chili

 そのキャリアは異例に長い。

 ピエールフランチェスコ・キリは、1986年から1995年までをグランプリライダーとして過ごし、その後、世界スーパーバイク選手権へ転向。引退する2006年までトップライダーで在り続けた。つまり、20年以上に渡り、世界の第一線で活躍したのである。

 1964年、イタリアのボローニャで生まれたキリは、今年で45歳を迎えているのだが、「フランキー・キリ」のニックネームの通り、人懐っこいその風貌は若々しく、年齢を感じさせない。そして、その誰からも愛されるキャラクターと芯の強さを武器に、レースの世界を生き抜いた。

祝福されなかった、たった一度の優勝

 キリはイタリア国内選手権を経て、1984年にヨーロッパ選手権の125㏄クラスに参戦。 1985年には同選手権のチャンピオンに輝くという順調さで、着実なステップを踏んだ。特異だったのは、グランプリデビューがいきなり500㏄クラスだったことにある。125㏄や250㏄クラスを足掛かりにせず、だからといってTT-F1など大排気量マシンの経験があるわけでもない、極めてまれなライダーなのだ。

 おそらく懐疑的な目もあったと思われるが、キリとチームオーナー、ロベルト・ガリーナは、そのライディングが500㏄でも通用すると自信を持っていた。果たしてこの挑戦は、彼らの思惑通りに進んだと言っていいだろう。

 プライベーターとしてスズキRGΓを駆ることになったキリは、デビュー2戦目のイタリアGPで7位に入賞したかと思えば、ベルギーGPでは雨の中、この年の最高位となる6位でゴールしたのだ。ちなみに、この時の上位はランディ・マモラ、エディ・ローソン、クリスチャン・サロン、ワイン・ガードナー、ロブ・マッケルニといった名だたる顔ぶれである。

 結局、このシーズンは7戦のみのエントリーながらランキング10位という好成績を残し、ポテンシャルの高さを見せつけたのである。翌1987年は、マシンをホンダへスイッチ。ただし、チームが用意できたのは3気筒のNS500だった。レース情勢は、すでに4気筒が主流で、そのパワーに対抗することは難しいと思われたが、キリはここでも奮闘してみせた。

 開幕戦となった雨の日本GPでいきなり4位に入ってみせると、やはり雨となったフランスGPでは、地元の英雄であり、しかも雨を得意とするサロンの追撃を振り切って2位でゴール。自身初の表彰台を獲得して周囲を驚かせた。2年前まで125㏄しか経験していなかったライダーが、プライベーターにもかかわらず、グランプリ最高峰クラスで頂点に近づいたのだ。

 1988年からは、他のホンダライダーと同じ仕様のNSR500を手に入れ、初優勝は時間の問題だと思われものの、この年は安定感を発揮しながらも表彰台に上がることは無かった。

 しかし、それは1989年のイタリアGPで突然やってきた。レース前からコースの危険性を訴えていたワークスライダー達は、雨になった決勝でレースを一斉にボイコット。キリはこれに同調せず、ワークスマシンで唯一人出走すると、市販レーサーを相手に圧勝してみせたのだ。無論、他のワークスライダー達はキリの走りをコースサイドから冷やかに見つめ、観客の多くもその走りを称えなかった。

 しかしキリは、ひとりでもファンがいる以上は走るという、ごくシンプルな信念を守ったに過ぎない。キリが達成した最高峰クラス唯一のこの優勝は、笑顔も祝福もない、不幸な表彰台となった。この時の予選では3番グリッドを得ており、実力で勝っていた可能性も充分あるだけに、なおさらやり切れなさが残った。

 その後、1991年からは250㏄クラスへ転向し、こちらでは4勝をマーク。また、1993年には世界チャンピオンとなった原田哲也のチームメイトとして、その献身ぶりと人柄が伝えられ、日本にも多くのファンを持つようになったのである。

 世界スーパーバイク選手権では、ドゥカティ、スズキ、ホンダと渡り歩き、12シーズンの間に17回もの優勝を記録している。確固たるスタイルを持ち、チームとファンのために走り続けた名バイプレイヤーが、ピエールフランチェスコ・キリというライダーである。

(初出:『ライディングスポーツ』2009年12月号)


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