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#157 Randy Mamola

 ランディ・マモラは天才のひとりだ。19歳でグランプリデビューを飾ると、激戦を極める250ccクラスでいきなりランキング4位、そして、500ccクラスでは、5戦を走っただけでランキング8位を獲得してしまった。

 陽気でいたずら好きなキャラクターと豪快なライディングは、誰もがイメージする典型的なアメリカンそのもの。一方、トレーニングや食事を筆頭に、レースにかかわる生活リズムのすべては科学的な根拠をベースに律しており、極めて論理的だ。それでいて、レース以外の多くの時間はチャリティーやファンサービスを通し、モーターサイクルの普及に努めた人情家でもある。そう、マモラはアスリートとして真のプロフェッショナルであろうとしたため、世界中のファンに、いまなお愛され続けているのだ。

届かなかったあと一歩の壁

 マモラがバイクに乗り始めたのは12歳の頃だ。 多くのアメリカンライダーと比較するとやや遅いスタートだったが、ダートトラックに参戦してからというもの瞬く間に優勝を重ね、14歳ですでにヤマハと契約を交わしている。

 やがて、15歳で初めてロードレースを経験したかと思えば、いきなり優勝を飾り、9連勝を達成。冬の間はニュージーランドのシリーズ戦にも出場し、1976年、1977年と連続してそのタイトルを獲得。1978年には全米も制すと、翌年にはビモータ・ヤマハから世界グランプリにフルエントリーを果たすという躍進ぶりだった。

 ヤマハは、すでにスターライダーだったケニー・ロバーツの後継者としてマモラを育成しようとしていたが、そのポテンシャルは関係者の想像を大きく超えていたと言えるだろう。その後も天才の勢いは止まらない。

 カワサキのコーク・バリントンや現モトGP王者バレンティーノ・ロッシの父であるグラツィアーノらを相手に2位表彰台に3度も上ってみせただけでなく、ケガをしたマイク・ボールドウィンの代役で500㏄に乗るチャンスも得ると、わずか4レース目のフィンランドGPと、続くフランスGPで連続して2位に入ってしまったのだ。

 さらに言えば、500㏄2レース目のベルギーGPではマモラは優勝していた可能性すらあった。なぜなら、この時の2回目の予選セッションではトップタイムをマークしており、一躍その名を轟かせたが、安全性を理由にレースそのものがキャンセルになってしまったからだ。

 思えば、こうした華々しさの一方、この年、勝つまでには至らなかったツキの足りなさが、後のマモラのレース人生を象徴していたのかもしれない。しかし、ワークスを渡り歩く理想的なライダー生活だったとも言えるだろう。
 
 この衝撃的なデビューの翌年には、スズキワークスに抜擢され1983年まで在籍。1984年と1985年はホンダへ、その後はヤマハへ移籍し、憧れだったケニー・ロバーツの下で2シーズンを送っている。そして、ベテランの域にさしかかった1988年からはカジバの開発に心血を注ぎ、この純イタリアンマシンを表彰台へと導いて存在感をアピールした。

 この間、1992年に引退するまでにスズキで2度、ホンダとヤマハで1度ずつランキング2位まで登りつめているのだ。チャンピオンになれなかった背景には様々な事情がある。スズキ時代はチーム撤退の憂き目に会い、ホンダ時代には3気筒と4気筒、そしてフレディ・スペンサーの動向に翻弄されるなど、歯車がどこかで狂ったのは事実だ。

 ただし、そうした事情よりもマモラは優しすぎたのかもしれない。グランプリを戦う一方、故郷の病院には寄付をし続け、訪れた国々の施設を訪れては子供を励まし、モータースポーツの素晴らしさを説いた。そして、自分がバイクに乗れる幸運と感謝を全身で表現することで、彼らに希望を与えようとしたのだ。

 マモラは今年50歳になる。そして、今もウィリーキングと呼ばれた現役時代と同じようにドゥカティの2シーターを操り、世界中のファンにモーターサイクルの楽しさを語る根っからのパフォーマーなのである。

(初出:『ライディングスポーツ』2009年11月号)

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