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#154 Wayne Wesley Rainey

 1984年4月。世界グランプリの第2戦イタリアGPがミサノで開催されていた。ライダーの実力とマシンのポテンシャルが拮抗する250ccクラスは2秒強の中に36人のライダーがひしめきあう激戦になった。その19番グリッドにヤマハTZ250を並べたライダーがウェイン・レイニー、当時23歳。アメリカからやってきたルーキーの姿だった。

 予選19位、初めてのコース、慣れないマシン、そして周りは百戦錬磨のヨーロピアンライダー達……。このレースで、レイニーの活躍を予想するのは難しかったはずだ。デビュー2戦目であることを踏まえると、予選を通過しただけでも評価されて良かったかもしれない(実際、チームメイトのアラン・カーターはこの時予選落ちを喫している)。

 ところが、スタートが切られるとレイニーはスルスルとポジションを上げ、そのまま3位でチェッカーを受けたのだ。グランプリ初表彰台をルーキーがあっさりと獲得し、同時にファステストラップもマーク。こうしてミサノはレイニーの記録を刻んだ最初のサーキットになり、大好きな場所のひとつとなった。

 しかし、それから9年後、その輝かしいキャリアに突如終止符を突きつけたのもまたミサノだったことは皮肉としか言いようがない。

エディ・ローソンを追い続けて

 ウェイン・ウェズリー・レイニーは、1960年にカリフォルニアのダウニーで生まれ育った。父親がモータースポーツ好きだったことに加えて、走る場所にも事欠かなかった環境が功を奏し、すぐにダートトラックレースに出場し始めている。

 高校生の頃にはスポンサーもつき、全米を転戦。当時、同じチームに所属していたのが2歳年上のエディ・ローソンだ。その頃は異なるクラスでの参戦だったものの、後に初めて同じフィールドで戦うことになったのが、1982年のAMAスーパーバイク選手権である。

 カワサキのエースと、そのセカンドライダーとしてワークスチューンのZ1000Rが与えられ、ローソンは前年に引き続きタイトルを防衛。ロードレース経験が圧倒的に劣るレイニーも奮闘して1勝を挙げると、徐々にローソンとの関係は師弟でも先輩後輩でも無くなり、クールなものへと変化していく。

 それは無理もないことかもしれない。なぜなら、ローソンもほんの数年前までは無名だったにもかかわらず、1980年のデビューイヤーからタイトル争いを繰り広げ、2年目には王座を獲得。常に自分の後を追うように這い上がってきたレイニーのポテンシャルに脅威を感じたとしても、なんら不思議なことではないだろう。

 事実、レイニーはこのデビューイヤーをランキング3位で終え、翌1983年には6勝を達成してチャンピオンを獲得。こうした急激なキャリアアップもまた、ローソンと多くの部分で共通している。

 1984年のシーズンを前にして、レイニーの未来は極めて明るかったはずだ。しかしながら、突然カワサキワークスがAMAから撤退することになり、シートを喪失。チャンピオンになったにもかかわらず、走るあてがまったく無い状態に追い込まれたのだ。その窮地に手を差し伸べたのが世界グランプリから引退したばかりのケニー・ロバーツだった。

 ロバーツは引退後もグランプリに残ることを決意。自らチームを立ち上げ、その帝王学を託すライダーを探していたのだ。レイニーはそのオファーを快諾したものの、わずかに誤算だったのは用意されたマシンが500ccではなく250ccだったことだろう。AMA時代に軽量クラスも経験していたとはいえ、得意とするダートトラック的な走りが活かせるのはビッグバイクだったからだ。

 それでもレイニーはミサノで3位表彰台を、ユーゴスラビアではポールポジションを獲得し、充分なスピードと高い完走率を披露。ランキング8位という好成績を残している。ただし、この年のオフにまたもやチームが解散するという憂き目にあうと再びシートを失い、アメリカに戻らざるを得なくなってしまったのだ。

 外野は勝手なもので、そんなレイニーを「ヨーロッパじゃ通用せず逃げ帰ってきたチキン」と揶揄する声も少なくなかったという。10代の頃から常にローソンの下のクラスで戦い続け、同じフィールドに上がったと思えば、打ち負かされる。対等に勝負できるスキルを身につけた時には、ローソンはさらにワンランク上のフィールドへステップアップ……と、レイニーのレースキャリアはその繰り返しだった。

 言うならば、1984年はその象徴とも言えるシーズンだ。なぜなら、250ccクラスで奮闘するレイニーを尻目に、ローソンはフル参戦2年目で500ccクラスのチャンピオンになってしまったからだ。片や世界一、片や負け犬のごときレッテル。レイニーの心中は察して余りあるものがある。

再びAMAへ。新たなライバル登場

 グランプリに未練を残しつつもレイニーは決して腐らなかった。アメリカへ戻ると、世界グランプリへ復帰することを目標に置き、フォーミュラクラスに参戦。プライベーターゆえ、チャンピオンにこそなれなかったがその活躍をホンダが見ていた。

 1986年はホンダワークスに招かれ、再びスーパーバイク選手権にエントリーを開始した。この年の開幕戦は恒例のデイトナ200マイルだ。ヤマハからスポット参戦してきたローソンが優勝したことで、再び悪夢のような壁が立ちはだかったかに見えたが、レイニーはシーズンを見据え、着々と優勝を重ねていった。結局、タイトルはフレッド・マーケルに譲ることとなったものの、レイニーは最多の6勝をマーク。シーズン終盤で演じた、たった一度のリタイヤがレイニーをランキング2位に留まらせた。
 
 ところで、この年はレイニーにとって生涯のライバルとなるライダーが登場している。それがヨシムラ・スズキに抜擢されたケビン・シュワンツだ。
陰と陽。緻密さと天衣無縫さ。性格もライディングスタイルも異なるふたりをライバルに見立てることは極めてわかりやすい構図であり、翌1987年は周囲の期待通り、大バトルを演じてみせた。この年のデイトナ200マイルでは、前年のローソンの影を払しょくするかのように優勝を遂げるとそのまま3連勝達成。勝ち星こそシュワンツに譲ったものの、見事2度目のスーパーバイクチャンピオンに輝き、再び世界グランプリへの足掛かりをつかむことに成功したのだった。

 2度目の挑戦もまたロバーツのチームだったが、マシンにはヤマハYZR500が用意されていた。そう、念願だった500ccクラスへのエントリーが叶ったのである。シュワンツもまたスズキからグランプリへフル参戦することが発表され、新たな時代の幕が上がろうとしていた。
 
 ウェイン・レイニーはこの時すでに27歳。やや遠回りしながらも、十分なキャリアと強さを身につけ、偉大なチャンピオンへと歩み始めたのである。

鈴鹿8耐を制し、トップライダーへ

 1988年にロバーツが結成したチームは、将来を見据えたものだった。それまで所属していたランディ・マモラとマイク・ボールドウィンというベテランを外し、レイニーとオーストラリア出身のケビン・マギーというフレッシュな顔ぶれに一新したのだ。

 ふたりとも期待の新人ではあったが、どちらがエースかと言えばマギーに分があった。マギーは前年の鈴鹿8耐を制しただけでなく、スポット参戦したポルトガルGPでは3位になるなど、確かな実績を残していたのだから当然だろう。そしてシーズンが始まると、シュワンツが開幕戦の日本GPでいきなり優勝。豪快なライディングと派手なパフォーマンスで一躍その名を広めていった。

 ただし、レイニーはあせることなく前半戦の全てで完走を果たし、しかも5度表彰台に立つ安定感を発揮。この時点で同じく全戦でポイントを獲得していたのはローソンだけだったのである。

 そして、夏のインターバルの間に参戦した鈴鹿8耐が転機となった。監督はロバーツ、ペアライダーはマギーというグランプリチームそのものの体制で挑んだレイニーは序盤から快走を続け、ラップレコードを樹立して優勝を飾ったのだ。GP500のディフェンディングチャンピオンであり、このレースの代名詞になっていたワイン・ガードナーを破っての勝利が、レイニーにどれほどの自信をもたらしたか。それは、その直後に開催されたイギリスGPの結果を見れば明らかだ。

 序盤は少し出遅れたものの、前を走るライバルを次々とブレーキングでパス。瞬く間に独走体制を築き、2位のガードナーに7秒もの差をつけてグランプリ初優勝を達成し、その実力を開花させたのである。

 結果、この年はランキング3位を獲得。最終戦を除く全てのレースで完走を果たし、表彰台獲得率は5割に達していた。唯一ノーポイントに終わったブラジルGPもマシントラブルが原因だったことを考えると、デビューイヤーとは思えない驚異的な安定感を残したことがわかる。ランキング1位にローソン、そして2位にはガードナー。レイニーはいずれタイトルが自分のものになることを意識していたに違いない。

 1989年になると運も向いてきた。なぜならローソンはヤマハを去り、ホンダへ電撃移籍。同時にヤマハNo.1ライダーの座がレイニーの元へ転がり込んできたからだ。いくらローソンといえども、他メーカーのマシンへの乗り換えがすぐに上手くいくとは思えず、となればライバルはシュワンツに絞ってもいい。実際、開幕戦はこのふたりの一騎打ちに終始し、ライバル関係をあらためて浮き彫りにした。

 ただし、相変わらず安定感に欠けるシュワンツはシーズン最多の6勝をマークするも、やはり6戦でポイントを取りこぼし自滅。第12戦のイギリスGPを終えた時点で、レイニーはランキングトップに立っていた。ローソンがNSR500を持て余していたという事情があったにせよ、初めて真っ向勝負で破り、チャンピオンになれる可能性が目の前に迫っていたのだ。

 そんな中、迎えた第13戦スウェーデンGP。ここで犯したわずかなミスがレイニーに深い失望をもたらしたのである。

 毎年、シーズン終盤に開催されていたスウェーデンGPは、ホンダにとってもヤマハにとっても鬼門であり、天王山でもあった。スペンサー、ローソン、ガードナーらは皆このGPを制し、その年のタイトルを手にしてきたことはよく知られているが、1983年以来続くそのジンクスはこの年もまた生きていた。
 
 美しい森の中を走るアンダーストープをレイニーは序盤から快走。ラスト数周でローソンに先行を許したものの、仕掛けるチャンスは充分にあった。もし、それが叶わなくとも2位に入ってさえいれば、ランキングトップの座を譲り渡すことも無かったはずだ。

 まさかジンクスにこだわったとは思えないが、ラスト2周になった時、レイニーはここでローソンに勝っておくべきだと思い直し、それまでより少し早くスロットルを開けてしまった。その瞬間、YZR500はハイサイドを起こし、レイニーの体を振り落としたのである。

 GP500に参戦して2年、28レース目にして初めて犯したこのミスの精神的代償は大きく、以降の2レースはいずれもローソンの後塵を拝し続け、世界最高峰の舞台で再び突き放される格好となった。
 
 この時、レイニー29歳。世界一になるために必要な戦い方をローソンに見せつけられ、しかしそれを確実に学んでいったのである。

世界最強の王者に君臨

 開けて1990年、本格的なシーズンインを前にレイニーの心はやや乱されていた。というのも、ローソンが再びヤマハへ復帰することになり、しかもレイニーのチームメイトになったからだ。いかにレイニーといえども内心穏やかだったとは思えない。ヤマハが、あるいは監督であるロバーツが何を考え、自分とローソンをどういうパワーバランスで扱うのかをはかりかねていたからだ。また、初めて履くことになったミシュランタイヤへの不安も抱えていた(ローソンは1985年からミシュランを使い続けている)。

 ただし、かつてのカワサキ時代とは違う。自分がヤマハのエースだという強烈な自負を秘め、レイニーは開幕戦の日本GPでシーズンの主導権を握ろうとしていた。
 
 実際、このレースはレイニーの独壇場だった。予選では前年のレコードを2秒以上も上回り、ただ一人2分9秒台に突入。決勝も一時は後続に10秒以上のアドバンテージを築くなど、まったく危なげなく優勝を果たしたのだ。全15戦の内、たった1戦が終わっただけにもかかわらず、レイニーはこの時点でチャンピオンを確信したと後に語っている。

 因縁のスウェーデンGPでも前年の雪辱を晴らすような圧勝劇を演じると、波に乗ったまま第13戦チェコGPでも優勝を果たし、シーズン最多の7勝目をマーク。完璧な形で初めてのタイトルを掴んだのである。

 カリフォルニアからやってきた小柄なブロンド青年がいくつもの挫折と試練を乗り越え、ついに栄冠をつかんだのは30歳。その風貌はレイニー時代を予感させる威厳に満ちていた。

ミサノで終焉したライダー人生

 その後は、ローソンが戦闘力に劣るカジバへ移籍したことによって、シュワンツとの争いがさらに激化。そこに速さと安定性を併せ持つホンダのミック・ドゥーハンが加わるという構図に移り変わっていった。

 1991年はドゥーハンに一時ランキング首位の座を明け渡すも、抜群の安定感でこれを奪回し、タイトルを防衛。翌1992年は、誰もが皆、ライバルよりも自身のケガとの戦いに明け暮れ、体にムチ打ちながらもより多くのレースに出たレイニーが、ドゥーハンをわずか4ポイント上回って3年連続タイトルを決めるというサバイバル合戦となった。

 そして、運命の1993年である。

 このシーズンは、レイニー対シュワンツという長年のライバル関係が極めて高い次元のバトルを生み出し、綱渡りのようなシュワンツのライディングにも安定感が加わっていた。

 ただし、本当に綱渡りだったのはレイニーの方だった。1993年型のYZR500はシーズン開幕当初からハンドリングの問題が指摘され、ギリギリのライディングを強いられたのだ。一向に改善されないフレームにしびれを切らしたチームは、ワークスのプライドをかなぐり捨てて市販フレーム(フランスのROC社製)を投入するなど、あらゆる手段でシュワンツに対抗していったのである。

 そうやって何度かポイントリーダーの座を入れ替えながらも、第12戦イタリアGPを迎えた時点でレイニーはシュワンツを逆転していた。

「ここで突き放せば、4連覇に王手が掛けられる」

 レイニーは得意のミサノを勝負の場と決め、トップに躍り出てもなお、シュワンツを引き離そうとコーナーの進入スピードを上げると、それが少し速過ぎた。レイニーはマシンのコントロールを失ってクラッシュし、コース外を激しくスライディングしながらタイトルの可能性が零れ落ちていくことを実感したという。

 しかし、それだけではなかった。その転倒は不運にも脊椎へダメージを与え、500ccのモンスターバイクを華麗にスライドさせるライダー生命まで奪ってしまったのである。

 レイニーは敗れ、様々なものを失いながらも、自分のモチベーションを奮い立たせてくれたシュワンツを認め、4強と呼ばれたライダーの内、最後のひとりがようやく掴んだタイトルを心の底から祝福した。レースの醍醐味をそのライディングを通して伝え続けた闘将は、そのスピリッツを多くの後進に授けた後、今は家族とともに静かに暮らしている。

(初出:『ライディングスポーツ』2009年7月号)


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