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#161 Kevin Magee

 ありあまる才能に恵まれながらも、ほんのわずかなつまずきによって有望な未来が狂ってしまうことがある。ケビン・マギーのライダー人生は、まさにそうしたものだったが、それゆえ鮮烈な印象をグランプリに残している。

 1962年、オーストラリアのホーシャムで生まれたマギーは、1986年にオーストラリア・ヤマハと契約している。国内のメジャーレースを次々と制し、この年、鈴鹿8耐に招かれるとワークス勢を押しのけて2位表彰台に上がってみせる怪物ぶりを発揮。これを機に、マギーを取り巻く環境は一気にめまぐるしさを増した。

 翌1987年、ヤマハは20年ぶりに開催された日本GPにマギーをスポット参戦させると、予選6位のポジションをマークしたことからその資質を確信したのだが、このレースを見ながらもうひとり、その才能を高く評価した人物がいた。それが、ケニー・ロバーツである。

 自身のチームを率いてグランプリに参戦していたロバーツは、マギーをヨーロッパに招くことを画策。マルボロのスポンサーを受けていたマギーをチーム・ラッキーストライク・ロバーツで走らせることは出来なかったが、一プライベーターとしてオランダGPとポルトガルGPを経験させたのである。

 ここでのリザルトは、ロバーツの期待と予想をはるかに超えるものとなった。世界屈指の難コースでもあるオランダのアッセンでは、いきなり予選2位を獲得。 決勝はアクシデントで10位に終わったが、そのインパクトは強烈だった。そして、ポルトガルのハラマサーキットでは予選5位。決勝では出遅れたものの怒涛の追い上げをみせ、ローソン、マモラに次ぐ3位表彰台という快挙を成し遂げたのだ。

 この年の活躍はこれだけに留まらず、鈴鹿8耐では奇跡の大逆転でヤマハに初優勝をもたらすと、SUGOで開催されたTT-F1世界選手権も制すなど、快進撃を続けた。グランプリフル参戦を目指すマギーは、ほどなく正式にロバーツと契約。チームメイトのウェイン・レイニーとともに最高峰の舞台に立ったのである。

わずか2年のグランプリフル参戦

 1988年、新生チーム・ロバーツに迎え入れられたマギーの野性的なライディングはますます冴え、初優勝の瞬間は早くも3戦目のスペインGPでやってきた。まずは予選でポールポジションを得たマギーは、決勝でもエディ・ローソンを相手に堂々と競い合い、最終ラップに力でねじ伏せると、そのままトップでチェッカーを受けたのである。

 実はこのサーキット、前年はポルトガルGPとして開催され、マギーが初表彰台を経験していたハラマなのだ。つまり、コースのハンデが無ければいつでも優勝を、あるいはタイトルを狙えることを意味していた。このシーズンはランキング5位で終え、鈴鹿8耐ではウェイン・レイニーと組んで2連覇を達成。マギー時代の到来を思わせる、確固たる存在感を国内外に残した。

 しかしながら、1989年は一転。 グランプリ初優勝という絶頂の瞬間を開幕3戦目で迎えた前年とは対照的に、マギーはこの年の第3戦アメリカGPにおいて、最初の苦悩を味わうことになる。

 このレースを4位でフィニッシュしたマギーはクールダウンラップの途中、アメリカの新鋭ババ・ショバートを巻き込むクラッシュを演じ(バーンナウトしていたマギーのタイヤスモークの中にショバートが突っ込んでしまった)、足を骨折。ショバートが受けたダメージは深刻なもので、結果的にそのライダー生命が絶たれることになった。このことが心理的な要因となったのか、1989年は表彰台に上ることなく終えると、心機一転をはかるようにスズキへ移籍。ケビン・シュワンツのチームメイトとして巻き返しを誓った。

 ただし、悲劇はまた起こってしまった。1990年のアメリカGPの決勝中、前年とまったく同じコーナーで単独転倒を喫したマギーは頭部を強打。そのまま10日間以上も意識不明に陥ったのである。幸い命は取り留め、ライダーとして復帰も果たしたが、以前のような輝きは取り戻せず、わずかな期間のフル参戦と1勝という記録を残すにとどまった悲運のライダーになった。

 それでもその後は、全日本ロードレース選手権の500㏄クラスや鈴鹿8耐で健在ぶりを発揮。情熱的な走りと笑顔を絶やさない人柄で、ファンに愛されたのである。

(初出:『ライディングスポーツ』2009年12月号)


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