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#274 John Kocinski

「アメリカ人以外はクソだ」と言ってのけ、自分以外のワークスライダーを「子猫ちゃんのあつまり」と呼ぶ傲慢さ。パドックではひときわ巨大なモーターホームを持ちながらも着替えはその外で済ませ、衣類についた埃をすべて取り除いてから中へ入る潔癖さ。ジョン・コシンスキーのキャラクターを伝えるエピソードには事欠かず、いずれにしても「理解しがたいライダー」ということでは一致している。

無論、ただの変わり者であれば、世に出てくることはなかったのかもしれないが、アメリカ国内時代からケニー・ロバーツの秘蔵っ子として知られ、1989年には日本GPとアメリカGPの250ccクラスにスポット参戦して優勝。それだけに留まらず、同年のベルギーGPでは初の500ccクラスで3位に入るなど(天候不順による混乱の結果、この時のリザルトは無効扱いになった)、ライダーとしての資質もまた、理解の範疇を超えていた。事実、250ccクラスにフル参戦を開始した1990年には、パワーに勝るホンダ勢を従えていきなりタイトルを獲得。その才能を誇示したのだった。

翌1991年は、ウェイン・レイニーのチームメイトとして、500ccクラスへ正式に昇格を果たしている。最終戦のマレーシアGPでは早くも初優勝を達成するなど、ライダー人生は順風そのものだった。キングと呼ばれたロバーツの帝王学を最も色濃く継承するライダーであり、その将来が約束されていた一方、この頃から徐々にふたりの関係は悪化していく。

なぜなら、レイニーがいる以上、コシンスキーはセカンドライダーのポジションに甘んじざるを得ず、思い通りにならないことの多さに我慢の限界を感じていたからだ。監督であるロバーツもまた、コシンスキーの言動や行動に手を焼き、1992年に残したランキング3位という成績に高い評価を与えることはなかった。

そんなコシンスキーが下した決断は、スズキに移籍して250ccクラスに復帰するというものだった。クラスを下げてでも、自分ひとりのために力が集中するエースライダーの座を欲したのである。

こうして迎えた1993年は、ある意味最もコシンスキーらしい激動のシーズンになった。シーズンオフのテストでは、それまで勝てそうになかったRGV-Γで次々と好タイムをマークし、開幕戦のオーストラリアGPではいきなりトップを快走。ヤマハの原田哲也に最後の最後で交わされ、タイヤ一本分の差で優勝を逃したのはただの不運に思われた。言い換えれば、このレースで感じられたポテンシャルによってコシンスキーとチームの士気は大いに高まったわけだが、それを奈落の底に突き落としたのもまた、原田だった。

オーストラリアGP以後、表彰台にこそ立てなかったものの、コシンスキーはコンスタントにポイントを稼ぎ、第7戦オランダGPでは2位の座を手中に収めようとしていた。ところが最終ラップに原田の先行を許し、3位に落ちたコシンスキーは、激高のあまりクールダウンラップ中にマシンを故意に壊すと、表彰式もボイコットしてそのまま姿を消してしまったのだ。この行為はチームとスポンサーの逆鱗に触れるには充分なものであり、コシンスキーはシーズン半ばにして解雇されたのである。

しかしながら、コシンスキーの1993年はまだ終わっていなかった。シーズン終盤、カジバに迎え入れられて突如500ccクラスに挑戦し始めると、わずか3戦目のアメリカGPでトップチェッカーを受けるという離れ業を演じたのだ。この結果、カジバのエースライダーに就いた1994年が、最高峰クラスにおけるピークになった。

この年、コシンスキーは開幕戦での優勝を含めて表彰台を7度獲得。速さと安定性が高いレベルでバランスし、チームも献身的にその走りを支えた。ところが、いよいよこれからという時に、カジバはグランプリからの撤退を発表。同時に、そのきらめきも失われていくのだった。

ほどなく、スーパーバイク世界選手権に活躍の場を求めたコシンスキーは、1997年にチャンピオン(ホンダ)を手にした後、再びグランプリに復帰している。とはいえ、かつてのスピードを発揮することなく、1999年を最後に引退を選ぶことになった。ただ速く走るためだけに生まれてきた才能を、もう少しだけコントロールできていたなら。そう思わずにいられないライダーである。

(初出:『ライディングスポーツ』2010年1月号/写真:ヤマハ発動機)

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