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#125 スポーツシングルの美学

「一期一会」、「一所懸命」、「一蓮托生」……など、日本語には「一」を含む熟語がいくつもある。そうした言葉には人としての心得やなすべきふるまいが含まれていることも多く、他の数字にはない高い美意識が漂う。

例えば「一輪挿し」といった物の名前でさえもそうだ。かつて千利休が豊臣秀吉をもてなした際、茶室の装飾をすべて排して一輪の朝顔だけをそこに生けたと言われている。周囲には多くの花々が美しく咲き誇っていたが、それらをもすべて摘み取り、美をたった一輪に集約したのだ。

それ以下では成立しないが、それ以上は無粋。一輪挿しにまつわるこのエピソードはミニマリズムの有り様として語り継がれ、いつしか日本人の琴線に触れるようになったのである。あるいは「一」に限らずとも、箱庭や俳句のように小さく凝縮された世界にそれを感じるのも同様だ。

多数をひとつに。大を小に。

そうやって削ぎ落とし、切り詰めていくことに日本人は価値を見出してきた。誰かに対する見栄でもなければ、誰かを負かそうとする競争心でもない。そこにあるのは、自身の美学とどう向き合うかという内面的な世界である。

そうした世界観を2輪に照らし合わせるなら、ひとつのピストンを動力源とするシングルエンジンがそれだ。見栄を張れるような豪華さを盛り込む余地はなく、排気量が同じならマルチシリンダーのパワーには敵わない。比較や競争の原理にとらわれない、本質を知るライダーにそれは選ばれてきた。

シングルは「分かる人には分かる」というエンスージアズムの上に成り立ってきたため、決して台数は見込めず、日本ではやがて1台のモデルに集約されていった。ヤマハのSRである。

出ては消えていく多くのモデルとは裏腹に、1978年に登場したこのシングルは、ほとんどなにも足されないまま今に至る。排ガス規制やABSの装着義務化を前にして現在は生産を休止しているものの、ヤマハは近い将来復活させることを明言。必要最低限の機能と簡素なスタイルを貫いてきたSRは、日本人の美意識が生んだシングルの象徴と言ってもいい。

とはいえ、そういうノスタルジックな味わいはシングルのほんの一面に過ぎない。軽く、スリムという構造上のメリットを活かした、ライトウェイトスポーツとしての資質にその真髄があるからだ。

シングルを操るという行為はマシンのポテンシャルを探ることではなく、持てるスペックをフルに引き出すこととほぼ同義である。スロットルを振り絞れるだけ振り絞って加速し、コーナリングでは旋回スピードをとことん追求する。立ち上がりでは一発一発の爆発が路面を蹴り飛ばす、そのトラクションを全身で感じながら再びスロットルを捻り上げ、むさぼるように次のコーナーを求める。

かつてスポーツシングルはその発露として存在していた。マシンと対峙しながらそのスペックを使い切れた時の充足感にライディングプレジャーが詰まっていたと言ってもいい。

そこに快楽を覚えたライダーが増えれば当然競争心が芽生える。日本はもとより世界中がそうしたムーブメントに包まれ、80年代から90年代中盤にかけて高性能スポーツシングルが次々に登場。レースも隆盛を誇ったが、やがて多くのライダーがライバルよりもマシンと1対1で向き合い、ライディングの質を高める道を選んだ。

コース上で誰かを打ち負かし、ラップタイムで上回ることよりもいかにマシンと身体をシンクロさせるか。心底シングルに魅せられたライダーはそういう境地へと辿り着き、絶対的なスピードと華やかさを選んだマルチシリンダー派との分岐点が生まれた。

シングルにあって、マルチシリンダーにはないもの。それはトルクを意のままに掴むダイレクト感だ。気筒数が増えれば増えるほどエンジンはスムーズになるが、分散された爆発力がトルクへ変換されるには微妙な待ち時間を要する。実際にはほんのわずかなタイムラグであり、その後やってくる怒涛の加速がすぐさま帳消しにしてくれるものの、プロセスよりも速さという結果を優先したマルチの300km/hと、150km/hまでの快楽だとしてもマシンとの濃密なコミュニケーションが図れるシングルのどちらを求めるか。そこにあるのは価値観の違いである。

ひとつ言えるのは、ライディングプレジャーの根幹はGを全身で感じ、それを受け留め、いなし、立ち向かいながら車体をコントロールすることにある。それを堪能するならバイクは軽量スリムに越したことはなく、体も身軽にしておいた方がいい。余計な加飾はもちろん、見栄や虚勢は足かせになるだけだ。少なくとも世の中のシングル乗りはそれを知っている。

(初出:『ahead』 2018年5月号)

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