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#156 Michael Sydney Doohan

 ポールポジション獲得58回、表彰台に登ること95回、そのうち、優勝は54回。グランプリ通算138レースに渡って積み上げられたこれらの数字の結果、5年連続で世界王者として君臨。こうして一時代を築いたのがミック・ドゥーハンである。

 90年代のグランプリを語る時、その代名詞的役割を果たすこの名前も、オーストラリアから初めて日本にやってきた頃は、思いも寄らなかった理由でその名を浸透させることができなかった。それは、当時の日本のメディアがリザルトに記載された「Michael Doohan」という名を、極めてカタカナ的に「マイケル・ドーハン」と読み、書いたことが一因だ。

 同じ頃、偶然にもドーハンと同じヤマハのマシンを駆り、しかも同じTT-F1に参戦する先輩ライダー、マイケル・ドーソンがいたのだ。 しかも、やはりオーストラリア出身なのだから、さらにややこしい。

 マイケル・ドーハン(Doohan)とマイケル・ドーソン(Dowson)。 発音もアルファベット表記もまったく異なるため、英語圏の人にはなんら問題はなかったが、1987年から1988年にかけて、日本で開催されたいくつかのレースで2人が対峙した時、レースファンはもちろんのこと、プレス関係者やサーキットアナウンサーまでもがしばしば混乱させられることとなった。

 自分の名が何度となく間違われていることを意識したドーハンは、「似た名前を持つドーソン先輩の名を汚さないように走りたい」と語り、この頃はルーキーらしい謙虚さに満ちていた。実際、ヤマハのワークスマシンYZFに乗るドーソンに対して、ドーハンに与えられていたマシンは最小限の改造が施されたFZRにすぎなかった。

 つまり、1987年当時は「すでに実績のある速いマイケル」と「今後の成長に期待したいマイケル」という明確な序列が存在したが、88年にはその立場が急速に接近。時に同じカラーリングのマシンでトップ争いを繰り広げるようになると、ますます周囲を困惑させた。
 
 ただし、それもこの年のシーズンオフまでのこと。 翌1989年、ドーハンは世界グランプリのシートをつかむと、瞬く間にその知名度をあげることに成功した。日本のメディアもいつしかその名をナチュラルな発音に近い「ドゥーハン」と記すようになり、ファーストネームはドゥーハン自身が「ミック(Mick)」と記すことを好むようになった。こうして、ミック・ドゥーハンという名は、世界最高峰クラスに君臨し続けた絶対王者として、グランプリ史に輝くことになったのである。

4メーカーから誘われたポテンシャル

 1965年6月4日、オーストラリアのブリスベンで生まれたドゥーハンのレース人生は、ごく平均的なものだった。2人の兄がモトクロスやミニバイクを遊びで始めた時、7歳のドゥーハンもそれにならって初レースを体験している。兄と同時にバイクに乗り始めたこと、つまり、兄よりも若いうちからバイクに接したことがドゥーハンの才能を伸ばしたきっかけになったのかもしれない。やがて、ドゥーハンはモトクロスやダートのレースでは負け知らずとなったが、12歳の時に父親を病気で亡くして以降、レースからはしばらく遠ざかっている。

 そんなドゥーハンが大きな転機をむかえたのは1984年、19歳の時にロードレースを始めてからだ。 当時はタイヤをグリップさせながら走るロードレースに興味を持てなかったと語るが、すぐに表彰台に上がる活躍をみせ、ヤマハのサポートを受け始めたという。

 それはTZR250などの公道用バイクに改造を施す下位カテゴリーに過ぎなかったが、代役で出場した750㏄のスーパーバイククラスで上位に入賞したことが注目され、当時のチームメイトであったロドニー・コックスとともに1987年の鈴鹿8時間耐久レースに招かれたのである。当時のオーストラリアと言えば、ワイン・ガードナーやケビン・マギーといったメジャーなライダーを輩出。 アメリカに代わる次世代ライダー発掘の場として、メーカー関係者の注目が高かったことも追い風になったと言える。

 その鈴鹿8耐はコックスの転倒によってリタイヤに終わったが、SUGOで開催されたTT-F1世界選手権では、プライベーターながら3位表彰台を獲得。富士スピードウェイのスーパースプリントでは、ケビン・シュワンツらを追いかけた末に5位に入賞するなど、初コースへの順応力と高いレベルでの安定性は目を見張るものがあった。

 1988年の鈴鹿8耐では、平忠彦のペアライダーに抜擢されたことも、ヤマハの期待の大きさを物語っていた。ドゥーハンもまたそれに応え、この年から世界選手権に格上げされたスーパーバイク選手権のSUGOラウンドに参戦すると第1レースこそ転倒を喫したものの、第2レースは独走で優勝。 続く母国オーストラリアラウンドでは両レースで優勝を飾ったのだ。
 
 また、全日本ロードレース選手権や富士スーパースプリントでも優勝するなど、ほぼ完璧な仕事をしたと言える。こうしたレースでトップ争いを繰り広げた相手の一人が他ならぬドーソンだったが、立場がすでに逆転しているのは明らかだった。

 しかしながら、ビッグタイトルを手にしていないからか、派手なパフォーマンスに時間と体力を割くような性格ではないためか、あるいはどちらかと言えば地味な言動や容姿のためか、ファンの間で爆発的な人気を獲得するには至っていない。

 その一方で玄人、つまりレース関係者の間での評価は凄まじく高く、1989年シーズンへのオファーが殺到していた。最初に動いたのはスズキだ。 シュワンツをグランプリへいざなった時と同様、バリー・シーンが仲介する形でスズキとの交渉が水面下で進められた。

 そして、次にアプローチをかけてきたのが、ホンダとワイン・ガードナー本人だと言われている。他にもランディ・マモラを擁するカジバ、あるいはジャコモ・アゴスチーニなど、その周辺は賑やかだった。いずれにしろ、どんな選択をしたところで、このルーキーの目の前にはグランプリ参戦の道が約束されていたのだから驚きである。

 もちろん、一番確実視されていたのはヤマハだ。 実際、日本でレースを終えた後、ヤマハはボーナスとしてYZR500をテストする機会を与えている。それゆえ、ヤマハ陣営もドゥーハンの動向については楽観視していたかもしれない。 ところがドゥーハンが熟考の末に決めたのは、ガードナーのチームメイトとしてホンダ入りすることだったのだ。

 これにはいくつか理由がある。まず、スズキには個性的なライディングをするシュワンツがいたこと。 つまり、良くも悪くもシュワンツありきでマシン開発が進められているため、自分のライディングを適応させられないのでは、という懸念があった。逆に、ヤマハは多くのライダーを抱え過ぎ、力が分散されると考えた。カジバやその他のセミワークス的な立場ではポテンシャルに欠けるのは明白だ。

 こうしたことから、ドゥーハンにとってホンダはベストな選択だったのだ。 母国の英雄となったガードナーのサクセスストーリーを自身の将来像として投影していたかもしれない。それでいて、ケガにあえぐガードナーを見るにつけ、やがてなんらかのチャンスが巡ってくる可能性もあり、そうでなければ、ナンバー2ライダーとして比較的気楽な立場でいられるとも考えた。かくして、ロスマンズ・ホンダのライダーとなったミック・ドゥーハンはグランプリ生活をスタート。 ロードレースを始めてわずか5年足らずで世界最高峰の舞台にたどり着いたのだった。

獲れそうで獲れない世界タイトル

 「車体が曲がらない。 どうやってもまっすぐ進もうとする」
 
 1989年のシーズン開幕を前に、ドゥーハンは途方に暮れていた。コーナーで旋回させようにもNSR500は言うことを聞かず、リヤをスライドさせながら無理矢理向きを変えると、今度はフロントが暴れ出す。「2ストロークのGP500とはそういうもの。扱いきれないモンスターマシンなんだから仕方がない」という周囲の見解は、ドゥーハンにとって納得しがたいものだった。

 なぜなら、ドゥーハンはYZR500のハンドリングをすでに知っていたからだ。 1988年のシーズンオフ中、ヤマハのテストコースで体験したそのコーナーリング特性は、NSR500のものとは比較にならないほどナチュラルで、扱いやすいものだった。
 
「NSRはなにかがおかしい」

 そう訴えてもデビューイヤーのルーキーの発言力には限界があったが、ドゥーハンにとってラッキーだったのは、前年のチャンピオン、エディ・ローソンがヤマハからホンダへ移籍してきたことだ。  ヤマハを知りつくしたローソンもNSR500が抱える問題を指摘。 すぐさま、フレームを中心とした改良が進められ、1989年シーズンは10数種類も新型フレームが次々と投入される前代未聞のシーズンとなったのである。

 ドゥーハンの主張は多くの点でローソンと一致したため、自身のライディングセンスへの 自信を失わずに済んだばかりか、ローソンの開発能力を横目にしながら、GPマシンの強大なパワーを急速にてなずけていったのだ。

 デビューイヤーとなった1989年は、表彰台を一度経験し、ランキング9位。そして、シーズン2年目の1990年にはポールポジションを3度獲得しただけでなく、ハンガリーGPでは念願の初優勝を達成。 ランキングも3位にまで躍進させることに成功した。ハンガリーでの勝利はドゥーハンにとって意義深い。 なぜなら、この国でグランプリが開催されたのは初めてのことだったため、ライダーは等しくゼロからの組み立てを余議なくされたのだ。

 ただし、ドゥーハンだけは例外で、事前のテストで、このハンガロリンクサーキットを知っていたのである。この経験からコース攻略のハンデが無くなれば常に優勝を争えることを実感し、十分な経験を積んだ翌1991年に対するタイトル獲得へのモチベーションを最大限に高めることになった。

 実際、この年のマシン開発の主導権は、完全にガードナーからドゥーハンに移っていたが、一方で「ガードナーはあらゆる手段を使って、僕の成功を邪魔しようとした」と語るほど、元チャンピオンとの不協和音ももたらしていた。ただし、シーズンが始まると、ドゥーハンの安定感が光り、一時はポイントリーダーにも立っている。

 結果的に、レイニーのタイトル防衛を阻止できなかったものの、僅差のランキング2位を獲得。この年に適用された有効ポイント制(合計ポイントから悪い成績の2戦を除外できる)がなければ、もしや……と思わせるに十分な内容となった。
 
 1992年には、いよいよ世界チャンピオンになるすべての条件が揃った。 その最大の武器は、4気筒の爆発間隔をより接近させた同爆エンジン、通称「ビッグバン」方式を採用したNSR500だ。
 
 単純に言うならば、より扱いやすく、よりパワーを有効に使うためのこの点火方式はレースシーンを一変させ、期せずして雨となった開幕戦の鈴鹿でドゥーハンは独走で優勝。そのトラクション性能の高さを存分にアピールしたのだ。

 以降も3連勝を達成し、シュワンツにもレイニーにも圧倒的な差をつけてシーズン序盤を過ごしたが、第8戦のオランダGPですべての出来事が一転。 ドゥーハンのライダー生命はここで断たれても不思議ではなかった。予選で些細なミスを犯したドゥーハンは地元の病院で骨折した右足の治療を受けていた。ところが、その単純な処置を誤った医師によって、右足を切断せざるを得ないという診断が下されてしまったのだ。

 その寸前、グランプリの専属医ドクター・コスタによって救出されたドゥーハンは、すぐさまイタリアに運ばれると、右足の機能回復のための最新医療を受けることができた。血流を確保するために両足を縫い合わせ、体外から骨を固定するための金具を装着(今では一般的になりつつある)するなど、あらゆる苦痛を強いられたが、シーズン終了間際のブラジルGPで復帰するという驚異の回復力を発揮。タイトルへのわずかな望みにつなぎながらも、またしてもランキング2位に甘んじるしか無かった。

 3戦を欠場し、歩くこともままならない状態だったにも関わらず、タイトル防衛に成功したレイニーとの差はわずか4ポイントにすぎず、このことはアッセンまでのドゥーハンがいかに突出した成績を残していたかを物語っている。

 ところで、この年のブラジルGPではレイニーとの確執が明らかになった。ことの発端はブラジルのコースに関する安全性の問題で、ドゥーハンを筆頭に幾人かのライダーが中止を要請。それに対して、レイニーは開催を熱望したのだ。もし、中止されれば前半戦の貯金でドゥーハンがタイトルを手にし、開催されればケガの回復具合から言っても、追い上げるレイニーが俄然有利になる状況だったのだ。

 結果的には、ブラジルGPは開催され、レイニーが優勝。最終戦の南アフリカGPも冷静に走り切り、3年連続のチャンピオンに輝いている。ブラジルGP開催を主張したレイニーの発言を聞き、ドゥーハンは「これまでレイニーを尊敬してきたが、自分のタイトルのためには他のライダーも危険にさらすことに幻滅した」と語った。

 一方のレイニーは、「プロライダーとして当たり前のこと」と、これを一蹴。双方の置かれた状況、そして本音と建て前が交錯し、二人の間にはしばらく冷たい空気が流れることになった。
 
 復帰したとはいえ、ドゥーハンはまだまだ本調子にはほど遠く、骨折した足は湾曲し、リヤブレーキはまったく使えないほど機能を低下させていた。1993年になっても回復は遅々としたもので、ホンダはしばらく欠場することを進言したが、ドゥーハンはこれを拒否してライダー生活を続行した。ホンダも使えない足のために、左手で操作できるリヤブレーキを作り上げるなど、献身的な姿勢でこれをサポートし、この年唯一ではあったが、サンマリノでの優勝に貢献したのだ。
 
復活。そして最強王者へ

 1994年からのドゥーハンを阻むものはもう何も無く、そして誰もいなかった。痛む足をかばい、まだ引きずるようにしか歩けなかったが、ひとたびNSR500にまたがれば、それはハンデにもならず、シーズン途中には6連勝をマークして悠々とタイトルを決めてみせたのだ。

 1992年にローソンとガードナーが去り、1993年にはレイニーも不幸なアクシデントで引退。 ディフェンディングチャンピオンのシュワンツも再びケガに泣かされる日々を送る中、ドゥーハンが世界チャンピオンになったのはライバルがいなくなったからだろうか?
 
 いや、それはあまりにも反ドゥーハン的な解釈に違いない。ドゥーハンは4強と呼ばれた彼らの中に果敢に割って入り、幾度も打ち破ってきた。そして彼らが去った後、次々とグランプリに送り込まれてくる若手をも全力で迎え討ち、これもまたことごとく撃破してきたのだ。

 これ以降、1998年までの5シーズンをチャンピオンとして過ごし、中でも1997年は全15戦中12勝をドゥーハンひとりで稼ぎ出すという圧勝劇は、ドゥーハン時代が未来永劫続くかのようでもあった。

 たが、もちろん引退の時はやって来た。

 1999年のスペインGPで負ったケガがその要因となったのだが、17か所に渡る骨折と神経の損傷を知らされるその時まで、復活への強い意欲を失うことが無かった。その鋼のような精神力が10年間のグランプリ生活を支え、王座に居座らせ続けたことに疑いの余地はない。

 それゆえ、多くのトップライダーにもそうであったように、ドゥーハンへもまた、多くの「もしも」を当てはめてしまいたくなる瞬間がある。例えばそれは、「1991年が有効ポイント制でなかったら」、「1992年のアッセンでのアクシデントがなければ」、「同年のブラジルGPが中止になっていれば」、「1993年にケガの回復が早ければ」といったチャンピオン獲得前はもちろんのこと、引退後においても「1999年のスペインでの転倒が無ければ」、「4ストローク育ちゆえMotoGPマシンに乗っていれば」などなど、その興味は尽きない。

 あまりに強かったがゆえに、「もしも」が実現すれば一体、何勝し、何年連続してタイトルをその手に収めたのだろう、とつい想像してしまう。それは、チャンピオンという孤高の座が、誰よりも鉄人たるミック・ドゥーハンにふさわしいからに他ならない。

(初出:『ライディングスポーツ』2009年9月号)

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