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#285 ユルい時代になった時こそ

アピオの河野代表には、幾度かインタビューをさせてもらっている。5年前、ジムニーの普遍性に話がおよんだ時、「ジムニーというクルマがここまで継続し、受け入れられてきたのは、時代がユルくなってもそれに合わせようとしなかったからだと思います」と、おっしゃった。

SUVブームが広がる中、ファッション性や豪華さが重視されるようになっても、リアルなサバイバル能力を忘れなかったからこそ、ブレずに存在してこられた。要約するとそういう内容だ。それに似た頑なさを守っている国産車は、他には軽トラくらいではなかろうか、と我田引水的に我がスーパーキャリイもほめそやしておく。

2輪業界で仕事をしていると、「最近のバイクはどれもつまらない」とか「昔はあんなに速かったのに、レースで勝てない」という不満をよく聞く。安っぽさや技術の遅れに対する嘆きでもあるわけだが、一方で「どれもこれも高過ぎる」とか「使い切れない電子制御なんか要らない」という声も同じように聞く。開発チームの多くは、いずれの要望にも応えようとするのだから、無理難題もいいところ。技術の停滞や後退には、ユーザーの側にも少なからず要因がある。

200psと205psの間にある5ps差にこだわるユーザーもいれば、カラバリやETCの有無が決定打になるユーザーもいて、そのすべての価値基準は間違っていない。単に「見た目が好き」という印象でモノを選ぶユーザーも正しい。くつ下の機能や素材、縫製にこだわるひともいるのだろうけど、僕は価格か、色しか見ていない。

昔はなにはともあれスペックありきだった。クルマもオーディオもパソコンもそう。結果、世に出てくる製品は、なによりもまずパフォーマンスの高さが絶対だった。色がどうとか、カウルの有無とか、ハンドルが高いだ低いだは些末なことであり、機械としてのレベルがそもそも高いところにあった。これはライダーの能力もそう。

ところが、いつしか勝手に「これくらいで充分」と達観するようになり、扱いやすいこと、乗りやすいことに方向を転換。これは成熟なのか、停滞なのか。

食べやすさ、聴きやすさ、住みやすさなんかも同列だ。メーカーが提供する「~~やすさ」が、ユーザーに届く時、それは「扱えるようになりたい」、「乗りこなしてみたい」、「食べてみたい」、「聴いていたい」、「ここに住みたい」に変換されなければならず、高い技術はそれを叶えるためにあるはずなのだ。

かつて欧米のメーカーが「これくらいで充分」となっていた時、日本は容赦なく高機能高性能で勝負を仕掛け、それらを駆逐していった。日本人が日本のメーカーにハイスペックなモノを求め、それが欧米のマーケットで躍動した結果だ。やがて時が過ぎ、かつてと同じ現象がASEAN諸国やインドから起こりつつある。高いパフォーマンスと先鋭的なデザインを求める彼らに駆逐されるのは、どこか。今度はそれが、日本のメーカーであっても不思議ではない。先日、中国製の電動スクーターに乗る機会があり、心底それを痛感した。


タイトル写真は、何年か前に広報車を借りて長野県へ行った時のもの。ただドライブを楽しみ、まったくなんの記事にもしなかったのだけど、よかったのだろうか……

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