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#159 Christian Sarron
1985年、ホッケンハイムで開催された西ドイツGPは雨にたたられていた。
レースはスペンサーが独走し、観客の興味が削がれ始めた頃、後方から猛然と追い上げるライダーがいた。
スペンサーよりも1秒以上速いラップタイムで走るそのブルーのマシンは、序盤は20位近くを走っていたにもかかわらず、瞬く間にトップに躍り出るとそのまま歓喜のチェッカーを受けたのである。これが「雨のサロン」と呼ばれたフランス人ライダーが最高峰クラスで挙げた唯一の、しかし印象的な優勝だった。
15年のキャリアを同チームで過ごす
クリスチャン・サロンがライダーを志したのは高校を卒業してからだが、21歳になった1976年、早くも世界グランプリデビューを果たしている。この時のチーム「ソノート・ヤマハ」には、引退する1990年まで在籍。「チーム」を「ファミリー」と考えるサロンは、家族なら生活も苦楽も共にすべきという、ごくシンプルな価値観を守り続け、チームもまたサロンがケガで走れなくともその帰りを待った。
そんな彼らの最初の成功は、9年目を迎えた1984年のことだ。最終ラップの最終コーナーまでもつれる熾烈な250㏄クラスの争いを3度制し、初めてのチャンピオンに輝いたのである。
この後は500㏄クラスへと挑戦。アメリカンやオージーに対抗できる数少ないヨーロピアンライダーとして存在感を示し続けた。サロンの印象はクールかつ物静かなもので、深々とマシンをバンクさせながら走る流麗なライディングフォームもまた、スマートなジェントルマンを思わせた。
しかし、ヘルメットを被ると豹変するタイプでもあり、レース中はかなりアグレッシブな存在として知られる。前を走るマシンのインに車体をねじこみ、ライダーもろともグラベルに弾き飛ばしたのは1度や2度ではなく、多くのライバルの脅威でもあったのだ。
ところで、「雨のサロン」の異名の通り、確かに悪条件下では速さを発揮したサロンだが、既述の通り、実際に500㏄クラスで勝ったのは一度きりだ。にもかかわらず、こうした印象を残しているのは、その負けっぷりにも要因があるのかもしれない。一例を挙げるなら、500㏄初優勝から2戦後のオーストリアGPがそれだ。
この時、レースはドライで始まったが、途中雨のために一時中断。やがて乾くと判断した各ライダーはスリック、もしくはインターミディエイトを装着して再スタートに備えた。
しかし、サロンだけはレインタイヤを選択しただけでなく、レース開始直前のウォームアップラップ後にタイヤを交換するというレギュレーション違反を犯してまでグリッドについたのだ。結果、雨は降ることなく惨敗したのだが、こうした勝負師の姿もまた、その異名を際立たせた。
そんなサロンのライディングが最も研ぎ澄まされたのが、1988年のシーズンだ。この年、第7戦オーストリアGPから第11戦フランスGPまで5戦連続してポールポジションを獲得するという高い次元の安定感を発揮し、コーナーリングスピードは極限の域に達していた。
サロンの集中力は母国フランスGPの決勝でピークを迎え、ワイン・ガードナー、エディ・ローソン、ケビン・シュワンツの3台が交えながらの超接近戦に観客は熱狂した。最後の最後でガードナーが脱落し、あらゆる条件がサロンを優勝へ導くかと思われたが、わずかに前を走るローソンに仕掛けることなく、2位でゴールしたのである。
なぜか。それは同じヤマハのローソンに無理をさせたくなかったからだと後に語っており、事実、この優勝を機にローソンはホンダのガードナーからタイトル争いの主導権を奪うことに成功した。サロンにとって、グランプリにデビュー以来乗り続けるヤマハもまたファミリーであり、大局のため一歩引くことを選んだのだ。
時に鬼気迫るようなアグレッシブさを見せる一方、なにより仲間を重んじるサロンのパーソナリティは、古き良き時代のグランプリの温もりと爽やかさをもたらす存在でもあった。
(初出:『ライディングスポーツ』2009年11月号)
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