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#158 Raymond Roche

 その頃、フランスでは14歳になれば義務教育から解放されて働くことができ、同時にバイクにも乗ることが許された。決して勉強好きでなかったレイモン・ロッシュは、6人兄弟という大所帯で育ったことも手伝ってか独立心がひときわ強く、その両方を選んだ。

 無事学校を卒業すると、ジャン・フィリップ・ルジア(後のグランプリライダー)の父親が経営するバイクショップで働き始め、当然ながらバイクのスピードに魅せられた。16歳で初めて自分のバイクを手に入れたロッシュは、地元ポール・リカールサーキットで本格的なレース活動を開始。やがて、セルジュ・ロセ率いるカワサキ・フランスの耐久チームに抜擢されるとその名を一気に広めたのである。

 フランス人らしく、耐久レースにはその後も積極的に参戦し、1983年にはボルドール24時間耐久でホンダRS850Rを勝利に導くなど、いくつかの印象的な勝利に貢献している。

 グランプリデビューは1978年、21歳の時だ。この年のフランスGPにおいて、250㏄で6位、350㏄で9位というリザルトを残すと、イギリスGPでは250㏄で3位表彰台を獲得するなど、非凡な才能を発揮したのである。

スペンサーに代わり、ローソンを追った84年

 前途洋々に見えたデビュイヤーだが、その後のロッシュはやや停滞する。ヤマハやスズキのプライベーターとして500㏄クラスにスポット参戦するものの、特に目立ったリザルトは残すことなく、1982年までを過ごした。ロッシュが再び輝きを取り戻したのは、1983年のシーズンを前にホンダへ移籍してからのことだ。

 この年からいよいよフルエントリーする体制が整い、市販マシンながら完走したレースはすべてトップ10内でフィニュッシュすると、ランキングも10位に上昇。 先のボルドールで見せた耐久レースの活躍も加わり、ホンダからの信頼を確固たるものにしていった。

 そんなロッシュの気力が最も充実していたのが、1984年だろう。ワークスではなく、サテライトチームのホンダ・トタルからのエントリーではあったが、メーカーからのパーツ供給も積極的なものだった。シーズン当初は市販マシンRS500をベースにしたものだったが、NS用の3気筒エンジンがマウントされるなど、随所にバージョンアップが図られ、その後は機に乗じてNS500が、あるいは4気筒のワークスマシンNSR500そのものが貸与された。

 こうした背景には、この年、不調に陥った前年のチャンピオン、フレディ・スペンサーの穴をホンダライダー全員で埋める、もっと言えばヤマハのエース、エディ・ローソンのタイトル奪取を全員で阻止するというメーカー側の思惑があったのだが、ロッシュはめまぐるしく変わる状況の中でも着実に結果を残し、その期待に応え続けた。

 事実、タイトル争いがクライマックスを迎えたシーズン後半の6戦中、5戦で表彰台を獲得し、その内2戦はポールポジションからスタートするなど、ローソンをおびやかすに十分な活躍を見せた。とりわけ、第11戦スウェーデンGPでは最終ラップまでトップを快走。結果的に、最後の最後でローソンに交わされたものの、ホンダの威信を掛けて食い下がったのはワークスのランディ・マモラではなく、サテライトのロッシュだったことは評価に値する。

 この年のランキングはローソン、マモラ次いで3位を獲得。 これが500㏄ライダーとして残した10年に渡るキャリアの中、最上位となったのである。

 翌年、ケニー・ロバーツ率いるマルボロ・ヤマハに移籍するもランキングは7位。 その後はチーム・カタヤマ(ホンダ)、そしてイタリアのカジバと渡り歩くが、その才能を結果に結び付けることはできなかった。

 ただし、ライダー人生のピークはグランプリ引退後にやってきた。1989年から世界スーパーバイク選手権に活路を見出すと、ドゥカティを巧みに操り、翌1990年には世界チャンピオンの座を獲得。グランプリライダーの意地と誇りを見せつけたのである。

(初出:『ライディングスポーツ』2009年12月号)

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