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#147 心の時代 ~自分で決める価値~

モノの価値は、それを使う本人の満足度に本質がある。というか、そこにしかない。にもかかわらず、多くの人は周りからどう見られるか、つまり他人の評価を基準にしてしまっている。なぜそんなものに縛られるのかわからない。

もっとも、こうした傾向は今に始まったことではないのだが、SNSを筆頭とするネット社会によって飛躍的に広まった。人の目を気にした上での行動はある種の協調性を感じさせる一方(空気を読む、というやつだ)、今ではそれが転じて、人の目にさらさないと満足できない人が増えた。

どこへ行って、なにを買って、どんなものを食べたか。本人が得た喜びのお裾分けとして写真をアップするのはいいが、実情は他人からの承認が目的だ。人に羨んでもらう写真を撮ることが行動の動機になっている人が少なくない。本末転倒であり、依存症に近い状態だ。

1年半ほど前に軽トラックを買った。バイクを載せたり、荷物を運んだり、なにかと便利に使っているが切迫した必要性があったわけではない。趣味のクルマとして、ごく単純に欲しかった。清々しいほどシンプルな装備、ショートギアゆえの忙しいシフトチェンジ、4輪駆動を活かした走破性。それらがもたらすドライビングプレジャーを想像すると心躍るものがあったからだ。手に入れてみると思い描いていた以上に楽しく、日常的に乗っている。

その様を見て、幾度か「恥ずかしくないの?」とか「TPOを考えろ」という意味のことを言われた。それなりにかしこまった場やハイブランドの試乗会にいくらなんでも軽トラは……と言いたいようだが、僕はそういう感覚を持ち合せていない。

天の邪鬼をよしとするつもりはない。豪華なことよりも質素であることの方が正しい、と訴えたいわけでも全然ない。ただ、周囲を見渡してから行動するのではなく、もっと自分(だけ)を楽しませることに素直になっていいのでは?と考えている。

世界は積極的に「個」の時代を目指してきたはずだ。人手が集まらなくても機械が代わりになってくれたのが近代であり、移動しなくてもコミュニケーションを図り、情報を得られるようになったのが現代である。

そうやって個人の自由を謳歌できる世の中になったにもかかわらず、未だ村八分を恐れるような意識が根強く、なにかにつけて「絆」や「つながり」にすがろうとする。絆とは、本来牛や馬といった家畜を繋ぎとめておく綱のことだそうだ。そんなものにがんじがらめにされるのはご免である。自分の意志でどこにでも自由に移動し、いつでも自由な選択をしていたい。

そもそも2輪を好む者のマインドは、そういう嗜好が強かったはずだが、狭い世界であるがゆえに、今も昔もそこかしこでマウントの取り合いを見聞きする。最高出力の差や装備の先進性はその最たる例で、同じモデル同士でも松竹梅のグレードがあれば、「どうせなら」と松を選ぶ。日本車よりドイツ車の方が思想的で、イタリア車の方が芸術的。そうやってなにかとラベリングしたり、カテゴライズしたがるのも同様だ。実に些末なことだが、易々と意識が変わることはないだろう。

そんな中、近々登場するトライアンフの新型「トライデント660」は、既存の価値観から抜け出せるかどうかの、ひとつの踏み絵になるかもしれない。なぜなら、一定の羨望を集める海外ブランドながら、価格帯は松竹梅で言えば梅に相当。排気量にもパワーにも装備にも突出した部分はなく、ベーシックというかトラディショナルというか、要するに普通のバイクだからだ。

人に「どうだ」と言って見せたところで、「へぇー」とか「いいんじゃない」という薄味の反応が返ってくるかもしれないがそれでいい。例えばヤマハのSRがそうだった。乗って得られる楽しさは本人だけが知っていればよく、即物的なカーボンパーツやこれ見よがし的な200psよりもずっと心を満たしてくれるはずだ。

(初出:『ahead』2021年1月号)

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