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#140 15歳になった1986年に

無論、その時は気がついていなかったが、今の自分につながる、そのカケラのようなものができたのは1986年のことだ。15歳になろうとしていたその年に手にした、二冊の本がきっかけになった。

一冊は、中学3年生の夏休みに読んだ『マン島に死す』。そして、もう一冊は、同じ年の冬休みに手に入れた『クラブマン』だ。そのどちらにも最初から最後までバイクとレース、そしてアイリッシュ海にある小島「アイル・オブ・マン」の風景が散りばめられていた。

『マン島に死す』は、その直接的なタイトルの通り、マン島TTレースを目指した、あるライダーの生と死を題材にした泉 優二の小説である。

レース小説にありがちな排気音やシフトチェンジを表す擬音は一切なく、コースの高低差や車体をバンクさせるタイミングが、そこに点在する家の形や石垣の色、路面の凹凸とともにこと細かく描写。迫るコーナーを前にライダーがなにをして、どんな心理状態にあるのか。そういった様々な事象が、すべて言葉で表現されていた。

レースはおろか、バイクにも乗ったことがなかったため、中学生の想像力をいくら広げても得られる臨場感には限りがあったが、漠然とした浪漫のようなものには触れた気がしていた。

その時はまだぼやけていたマン島のイメージを、はっきりとビジュアル化してくれたのが数ヵ月後に創刊された雑誌『クラブマン』である。

手に取ったのは偶然だったが、印象は強烈だった。

朝もやの中、海を背にしながら丘陵を駆け上がってくる様々なレーシングバイクで誌面は埋め尽くされ、原稿に中に踊る「ババッ」、「ドドッ」、「ボロロ」……といった幾重もの排気音と見事にリンク。マフラーから香る植物油の燃える匂いがどんなものかは知らなかったが、本から漂ってくる空気感の中で、確かにそれを想像することができた。

もっとも、そこで取り上げられていたのはマンクスグランプリというクラシックバイクをメインとしたレースであり、『マン島に死す』に描かれていたTTレースとは位置づけも開催時期も異なるということを知ったのはずいぶん後だったが、そんな事は些細な問題だった。

創刊編集長である小野かつじさんが思い描く世界を、磯部孝夫さんを筆頭とする一流のカメラマンが表現し、BOWさんのイラストが彩りを加え、その思いを汲み取ったデザイナーがシンプルなグラフィックでまとめ上げていく。

『クラブマン』は、誰も見たことがないような上質な世界をバイクを通して伝える、そんなグラフ誌として突如産み落とされたのだ。バイクとライダーが疾走し、時にたたずむシーンだけで構成されているにもかかわらず、そこには、大人になったところで、おいそれと近づけそうにもない圧倒的な高みがあったのである。

実際にクラブマン編集部に入り、編集者としてのキャリアをスタートさせたのはそれから17年も経った'03年のことだ。我ながら少々遅きに失した感はあったものの、そうした世界に足を踏み入れるには、自分の中にそれだけの時間や巡り合わせが必要だったのだと思う。

それから後、'05年に編集長になってからというもの、僕は創刊時のクラブマンを指針にした誌面を作ろうとしていた。磯部カメラマンも、BOWさんも、小野さんの下で直接仕事をこなしてきた先輩スタッフもまだ大勢かかわってくれていたため、「クラブマンの原点回帰」を自分の仕事に課し、それができると思い込んでいた。

しかし、どうにも上手くいかず、色々なものを持て余した結果、半ば放り投げるように編集長を辞した。クラブマンは、それから2年後に今に続く休刊状態に入るのだが、少なからず凋落へ向って舵を切り、あるいは加速させたひとりだったと自覚している。

一方で、会社を辞めたがゆえに自由を得た僕は、それを機に自身のマン島TT参戦計画を始動。実現までに数年掛かったものの、そこへ突き進めたことは皮肉と言えば、皮肉ではある。

クラブマンがあったからこそ、触れることができたバイクとレースとマン島だったにもかかわらず、クラブマンを去ったことでそれらを手繰り寄せることになったからだ。編集の最前線で踏ん張り、しかし後に散り散りになっていったスタッフの紆余曲折を思えば、今も時折後ろめたさのようなものを感じることがある。

ともかく、そうやってあらゆる事柄、あらゆる人との関係を切り捨てて、マン島TTには'10年に参戦することになった。

バイクとパーツ、工具の一切合切を積み込んだハイエースを日本から送ってパドックに辿り着いた時、そこで思い起こされたのは『マン島に死す』の中の様々なシーンだった。それが、いかに緻密な取材に基づいて書かれていたのかを知ることになったのだ。

なぜなら、文中に表現されているコース脇の家や橋、木々の瑞々しい風景は、実際にそこを走った者でしか知り得ないものであり、しかも著者取材時の'85年と、僕がそこに立った'10年の間には25年間もの開きがあったにもかかわらず、ほとんどすべてがそっくりそのまま残されていたからだ。

圧巻だった。

本文中の主人公、沢木亮が見た風景に、自分が見ている風景が次々と当てはまっていくあの鳥肌の立つような感覚は、今も忘れられない出来事である。本という確かな実体の中で文字や写真は確実にそこ残り、たとえ数十年経っても、誰かの人生や心中に影響をもたらすことがあることを思い知った。その相手が、たったひとりだとしてもだ。

ひるがえって自分の手掛ける本はどうなのか?

それを考えると、責任感に奮い立つというよりも、事の重さにそら恐ろしささえ覚えたが、同時に本の意義と未来に確信も持てるきっかけになり、今に続いている。次々と雨散霧消していくネットの世界とは、それこそが決定的な違いであり、強みだとも思う。

バイクに乗るという行為は時に生々しく、それを知らない人よりは少しだけ死が近い。それでもやっぱり素晴らしく、いつもドキドキさせてくれる。走り出せば、たとえ束の間であってもそこには自由があるのだ。

そんな自由こそが、バイクが持つ象徴的な魅力のひとつだが、それを今も謳歌し、バイクにまたがっている時間がどれほど心地いいものかを語る。社会性とはやや離れた、そんな行為を誇れるのは、他でもなく、素晴らしい文や写真を残してくれた先人達のおかげだとつくづく思う。

『クラブマン』、あるいは『マン島に死す』を筆頭とする本のいくつかは、そういうピュアな部分だけを抽出し、粋な世界へといざなう案内役になってくれたのだ。

日本も欧米も関係ない。大仰に文化や社会を語るわけでもない。ただ美しいバイクとそれに思いを馳せるライダーの瞬間瞬間が凝縮され、僕の、そしておそらく世の中の多くのライダーの目指すべき指針になってくれたのである。

なかでも小野さんは、見事にその役割を演じ切り、好きなバイクで好きなところへ行き、命をまっとうするその瞬間ですらバイクとともにいた。それが本意だったかどうかを聞くことは叶わないが、なんというダンディズムなのだろう。

時に僕は、自由と右往左往を混同しながらも、道は大きく踏み外さずに済んでいる。道の行く末が分からなくとも不安を覚えずに済んでいるのは、キラ星のような雑誌や小説がいつも心の拠り所になり、立ち止まり、還れるからだ。

バイクに文化があるとすれば、そうした雑誌や小説が表現してきた有形無形の世界観そのものであり、そこに登場するバイクとライダーそのものだ。バイクに乗る理由をひとつ挙げるなら、その中になりたい自分の未来像を見つけることができるからだと思う。

小野さんが『クラブマン』を創刊したのは、43歳の時である。気がつけば今年、僕はその年齢に達しようとしている。それも手伝ってか、バイクにまつわるなにかを文字で表現し、それを未来の誰かの手と心に残せたら。そう強く願っている。

いつかそれができるかもしれないし、できないかもしれない。できたとしてもまた長い時間や巡り合わせが必要になるかもしれないが、スロットルを握り続けることでそこに近づけるなら、これ以上ない最高に幸せな人生だと思う。バイクには、ともに人生を歩むだけの価値がある。少なくとも僕はそう信じている。

(初出:『ahead』2014年2月号 「クルマやバイクに文学はあるのか」前編


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