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#152 Eddie Ray Lawson

 世界グランプリの最高峰クラス、GP500で4度ものタイトルに輝いたエディ・ローソン。1984年から1989年というわずか6シーズンのうちに達成したその戦績は、群雄割拠の80年代にあって突出したものだ。その功績が称えられ、2005年にはグランプリ史上17人目の殿堂入りを果たしている。

 しかしながら、これは正当な評価だろうか? 問題は17人目という順番だ。つまり、ローソンがレジェンドの仲間入りをするまでに16人の先達がいたことになるのだが、その中にはケニー・ロバーツ、フレディ・スペンサー、ケビン・シュワンツ、ウェイン・レイニー、ワイン・ガードナーという面々がいる。そう、ローソンは彼らと同じ年代を過ごし、先駆けて引退したロバーツを除けば、ことごとく彼らとの真っ向勝負を繰り返して退けてきたにも関わらず、どのライダーよりも遅れて評価されたことになる。通算優勝回数もチャンピオン獲得数も彼らのそれを圧倒的に上回っているローソンへの敬意は、なぜかいつも控え目なのだ。

 そんなローソンがいかなるパーソナリティの持ち主か。それは多くのレース関係者やジャーナリスト、あるいはファンにとっても極めて難しい質問に違いない。

 ローソンのことを「無口な男」と評する人がいる。本当だろうか?

 例えば1986年、AMAの開幕戦となったデイトナ200マイルレースに参戦を表明していたフレディ・スペンサーがサーキットに現れないことに対してコメントを求められたローソンは「Freddie? Who?(フレディって誰それ?)」と一口言い放ったことは広く知られている。飾り気も遠慮も無いそんな一言は無口といえば無口。しかしながら、その辛辣さは誰よりも雄弁に感情の波を表している。

 また、ローソンのことを「堅実な走り」と評する人がいる。本当だろうか?
 
 例えば1982年、やはりデイトナ(当時はまだ100マイルレース)にローソンはカワサキZ1000で参戦。このレースで選んだ作戦は無給油で走り切る大胆なもので、結果的にラストラップにガス欠を起こすという幕切れは、堅実さとは裏腹の一か八かの大博打だった。そして、後の世界グランプリシーンにおいてもこうしたチャレンジングな走りを幾度も演じている。

 にも関わらず、多くの人々は彼のことを“ステディ・エディ”と呼ぶ。決して無理をしない、型にはまったような手堅い走りをするローソン。それは我々の幻想に過ぎないのではないだろうか。ローソンが積み重ねた勝利とチャンピオンを紐解いていけば、そこには、ただひたすら勝利を求めた狂気の姿が浮かんでくるのだ。

ライムグリーンを背負った
AMA時代

 エディ・レイ・ローソンは、1958年に父レイと母パトリシアの間に生まれ、カリフォルニア州のアップランドで妹のシェリーらとともに青年期までを過ごした。ライダーでもあり、化学者でもあった父親のDNAは二人の兄妹に正しく引き継がれ、ローソンは12歳の頃からヤマハDT80でミニバイクレースのキャリアをスタート。勤勉なシェリーは後に教師の道へ進んでいる。

 理論めいた父親の才がローソンにどれほどの影響を与えたかは定かではないものの、やがてダートトラックとロードレースに没頭。その理由の第一に、モトクロスと違って頭を使うメンタルなスポーツであることを挙げている。少々ミスや転倒をしても走り続けることができるモトクロスよりも、緻密な作戦と正確なライディングが要求されるダートやロードレースの方が魅力的だったのだ。

 15歳で本格的にロードレースの世界へ入ったローソンは、カワサキのKH400で徐々に頭角を現していく。そして、1977年のデイトナでTZ250に乗ってライトウェイトクラスで優勝を飾ると、メーカー関係者の間で注目される存在に成長した。

 中でも、その豪快なライディングフォームにいち早く才能を見出したのがカワサキだ。各メーカーから1000㏄クラスの市販車が出揃い、それと並行して整いつつあったAMAスーパーバイク選手権の人気は、KZ1000Mkをラインナップするカワサキにとって絶好のアピールの場だった。そこでカワサキのワークスチームは、エースライダーにマイク・ボールドウィンを起用。それをサポートする有望な若手としてローソンを選んだというわけだ。 

 かくして、1980年にローソンはカワサキと契約。22歳で一気にAMAのメジャーライダーの仲間入りを果たしたのだった。この契約を巡っては、後の世界グランプリまで続くスペンサーとの因縁がすでに始まっていた。というのも、カワサキはローソンに声を掛ける前に、19歳とさらに若いスペンサーの獲得に動いていたのだが、すでにホンダに乗ることが決まっていたため、ローソンは2番目の選択肢だったのだ。

 カワサキは次世代のライダーとして、ローソンにはゆっくりとキャリアをつけさせようとしていたが、スーパーバイク開幕を前にボールドウィンがケガを負うという不測の事態が発生。ルーキーのローソンが急きょエースの座に担うことになったものの、ここで望外の活躍を演じることになる。

 なんと、デビュー戦で優勝するという劇的な幕開けに成功したローソンとカワサキは、そのままホンダCBのスペンサー、ヨシムラGSのウェス・クーリーを相手に3勝を上げ、タイトル争いを演じたまま最終戦のデイトナに臨むと、驚くべきことにそのままチャンピオンになってしまったのだ。

 ところがここで不可解なことが起こる。トラブルを起こし、決勝前に乗り換えたローソンのスペアマシンにレギュレーション違反が指摘されて失格。同時に全米チャンピオンのタイトルは、クーリーとヨシムラの手に渡ることになったのだ。当時のスーパーバイクレギュレーションはある種なんでもアリな時代だったとはいえ、デビューイヤーの若者がやすやすとタイトルを獲ることを認めるほど、大らかでは無かったらしい。

 翌1981年は雪辱を晴らすシーズンとなった。名実ともにエースライダーとなって安定したリザルトを刻むと、スペンサーの追撃を振り切り、4勝を上げて見事初のAMAスーパーバイクチャンピオンの座を獲得。250㏄クラスでも6勝を記録し、このクラスでもタイトルを奪取するなど、ライバルを圧倒した。

 皮肉にも速さが際立っていたがゆえに、淡々と勝利を積み重ねていくかに見えたそのスタイルを、人々は“ステディ・エディ”と評した。ローソンのキャラクターを良くも悪くも決定づけたそのニックネームは23歳という若さで与えられ、引退するまでくつがえることは無かったのだ。

 ローソンの後塵を拝したスペンサーは、AMAに固執することなく、1982年には世界グランプリへフル参戦を開始。ライバルを失ったローソンは序盤に優勝を重ね、タイトルの防衛に成功した。この時チームメイトに加わったのが、後に世界チャンピオンになるウェイン・レイニーだが、この頃はまだローソンのサポート役にも敵にも成り得なかった。

 ところで、1982年のローソンは決してステディなどでは無かった。冒頭のデイトナ無給油作戦もさることながら、ラグナ・セカではカワサキのトランスポーターがレースマシンもろとも全焼したため、難を逃れて余っていた2ストロークのKR500で出走。絶望的にポテンシャルの劣るマシンで、世界グランプリのインターバル期間中にスポット参戦してきたスペンサーを追いかけると転倒。脊椎を骨折するという手痛いミスを犯してしまう。それゆえ、その後のレースは首を固定し、骨をプレートで抑えながら参戦するという気迫の塊のようなライディングを続けていたのだ。体の自由が効かないまま1000㏄のマシンを操り、それでもポイントを重ねるその姿を、無理をしない堅実な走りだと言うなら、ファンの見方はずいぶん勝手なものだと言わざるを得ない。

 このAMAスーパーバイク選手権のレギュレーションは安全面と止めどないコストを理由に、翌1983年からはエンジンの排気量を750㏄に引き下げることが決定。4気筒の1000㏄というモンスターマシンの咆哮が聞かれたのはわずか3シーズンながら、その内の2シーズンを制したローソンはまさに最強最速の王者として君臨していたことになる。暴れるグリーンモンスターを手なずけて築いたAMA時代の活躍が、多くのカワサキフリークを産んだのである。

スペンサーとの戦いは
GPへ舞台を移す

 1983年になると状況は一変する。ローソンは世界グランプリのヤマハワークスチームからオフォーを受け、これを快諾。戦いの中心をヨーロッパに移すと、2ストローク500㏄という真のモンスターマシンを手に入れたのだ。レースにしか興味を持てないローソンにとって、最も速く最も高度なマシンに乗るために下した、極めてシンプルな選択に違いなかった。

 一方、ヤマハの考えはやや慎重だ。ローソンを指名したのはチームのエースライダー、ケニー・ロバーツの世界タイトル獲得をサポートさせるため。もっと具体的に言うならば、ロバーツのライバルになるスペンサーのポジションを落とすための切り札になることを求めていたのだ。

 いくらAMAで活躍したとはいえ、初めてのヨーロッパ、初めてのマシンという環境を考えるといささか荷が重いと言わざるを得ないが、ローソン抜擢に理由に、ライディングフォームがロバーツのそれとよく似ていたことが挙げられている。つまり、スペンサーの前に立ちはだかることのできるポテンシャルが開花することを期待し、また引退が近いロバーツの後継者としてもふさわしいと考えていたのだ。

 ただし、こうした見解についてローソンは同意していない。ライディングに関してケニーから影響を受けたことも指導を受けたこともないときっぱりと否定。すべては自分で解決することを身上としている、と語っている。むしろ、そのライディングスタイルはスペンサーに似ており、ただし彼よりも少しだけアクセルワークが丁寧なだけだと自己分析している。このことからも、いかにスペンサーとの戦いを意識していたのかがわかる。

 とはいえ、グランプリデビューを果たした1983年はスペンサーに完敗を喫し、ロバーツのサポート役というヤマハの思惑にも応えることはできなかった。この年の最終戦イモラにおけるロバーツとスペンサーのトップ争い、それに割って入ることができなかったエディ。それぞれの思惑は前号に詳しいが、実際のところ幾度かの表彰台を経験し、ランキング4位でシーズンを終えたことは、客観的に見れば評価されて然るべき内容だ。

 ローソンの世界グランプリにおけるキャリアは、この1983年を皮切りに1992年まで続くことになる。長きに渡るその過程でひとつだけ“もしも”が許されるなら、1986年まで続いた押しがけスタートが挙げられるだろう。耐久などで見られるル・マン式スタートを除けば、現在のレースはエンジンを始動させた状態でグリッドに並ぶクラッチスタートが常識的だ。しかし、当時はエンジンを停止させ、マシンの横にライダーがスタンバイ。シグナル、もしくはフラッグを合図に3歩、4歩とマシンを押し、クラッチをミートさせて飛び乗る押しがけが通常のスタイルだったのだ。

 始動に手間取るライダーに後続マシンが追突するといったアクシデントが増えたことを受け、やがて廃止されるのだが、当時のヤマハはとりわけこの始動性に難を抱えていたのだ。結果、予選で好位置をキープしていてもスタートでエンジンがかからず出遅れる、そんなシーンが多く見られ、ローソンもいくつかのチャンスを不意にしている。

「もしもクラッチスタートだったなら……」
「もしもYZRの始動性が良ければ……」

 そう考えると、ロバーツとスペンサーのタイトル争いやローソン自身の評価が今とは少し違ったものになっていたのかもしれない。結局、このハンディは、押しがけが廃止される前年の1986年においてもヤマハのライダーを悩ませ、予選で圧倒的なスピードをみせていたアッセンではやはりスタートに失敗。失ったポジションを取り戻そうとしたローソンは、半周もしないうちにコースアウトした挙句に転倒するという失態を演じている。この時の落胆ぶりは大きく「これからはダートレースにでも転向する。それもすぐに失敗するだろうけど」とインタビューで自嘲気味に語ったほどだ。

 ちなみに、スペンサーのニックネームでもある“ファスト・フレディ”だが、レース中の速さもさることながら、ヤマハ、あるいはローソンとは対照的に、まるでセルでもついているかのようにほんの1歩か2歩押すだけで素早くエンジンをスタートさせることができたことに由来する。こんな点でも二人は比較される運命にあったのだ。

 グランプリ2年目となる1984年になると、ローソンは完璧に自分の仕事を遂行した。速さと脆さを見せる独創的なホンダのV4に翻弄されるスペンサーは、5勝を挙げるも終盤にはケガによって欠場。一方、4勝ながらそれ以外のレースもすべて上位でフィニッシュしたローソンは自身初の世界チャンピオンに輝き、ロバーツの後継者を求めたヤマハの期待に応えたのだった。

 チャンピオンを決めたスウェーデングランプリは、前年にロバーツとスペンサーによるタイトル争いの天王山にもなったラウンドだ。ローソンはその地で最終ラップにトップに立ち、ヤマハのスタッフは留飲を下げることになった。

 プレッシャーから解放されたローソンは、それ以降しばらくは饒舌に振る舞い、特に当時のチーム監督ジャコモ・アゴスチーニ(殿堂入り第一号を果たしたイタリアの英雄)についてコメントを求められると、ギャラの未払いに関するトラブルを平然と公言。辛辣な皮肉屋としてのキャラクターを確立していくこととなる。

時代は4強へ
それでもなお王座へ君臨

 若く、儚げで、天才的なきらめきをみせるスペンサーに対して、ローソンは無表情で、多くの場合は無口。そして走りは堅実。スペンサーも決してフレンドリーな方ではなかったが、ジャーナリストもファンも明らかにこの二人は陰と陽として扱ってきた。無論、ローソンが陰だ。それゆえ、1985年にスペンサーが速さでローソンをねじ伏せるとスプリンターとしての天性の才能を称え、1986年以降、ケガに悩まされるとその姿に同情した。つまり、ローソンがタイトルを獲れたのはスペンサーの調子が悪かったから、というのが多くの論調だったのだ。

 しかし、時代は急速に変わりつつあった。いわゆる4強時代の幕開けがそれだ。1986年、スペンサー不在のグランプリで2度目の頂点へ立ったローソンは、シーズン初めにデイトナ200マイルに参戦。ヤマハFZ750にデビューウィンをもたらしたのだが、この時、ローソンに敗れたのがホンダVF750に乗ったウェイン・レイニーとスズキGSX-Rのケビン・シュワンツだ。

 またこの同日、オーストラリアのワイン・ガードナーが、全日本ロードレース選手権のTT-F1クラスにおいてVFRで優勝している。この4人がそれぞれのチームのエースとして、グランプリの舞台で一堂に会したのが2年後の1988年のこと。それからローソンが引退を決意する1992年までが、近年で最も華やかかりし4強時代であり、グランプリ史上における黄金期のひとつに数えられている。

 1987年にガードナーに敗れたローソンは、以前にも増してレースに対して貪欲に取り組んでいく。1988年にはタイトルの防衛に執念をみせるガードナーと波に乗ると手がつけられない速さを発揮するシュワンツ、そしてすでに老獪さを身につけていたレイニーをことごとく破って、3度目のタイトルを手にすると、翌1989年にはシーズン直前にホンダへ移籍するという大胆な行動に出た。

 パワーはあるがハンドリングに問題を抱えるNSRにローソンは遠慮なく注文をつけ、シーズン中のフレーム変更は15回にも渡ったという。ホンダの誠意にローソンも応える形でマシンを自分のものにしていき、この年、唯一追いすがったレイニーを突き放すと、他メーカーのマシンで連続王座に就くという偉業を達成したのだ。これは、後にバレンティーノ・ロッシが達成するまで誰もなしえなかった記録である。

 トップライダーの移籍がまだ稀だった時代にローソンは勝てる体制を模索し続け、翌年には再びヤマハへ戻ると、3年連続タイトルを目指すも第2戦アメリカGPで負ったケガがたたってタイトル争いから脱落。そんな中、戦いのモチベーションを鈴鹿8耐に見出すと、ペアの平忠彦に耐久初優勝をプレゼントして存在感を見せつけたのだ。

 ローソンの動向はレース界の格好のネタとなっていたが、1991年に今度はイタリアのカジバへ移籍。引退間近の話題作りにも思われたが、地元イタリアGPでは一時トップを走るなど常にきらめきを放ち続け、翌1992年にはハンガリーGPでついにカジバに初優勝を捧げたのだ。雨で濡れた路面をインターミディエイトとカットスリックで耐え、終盤にトップに躍り出た大逆転劇はAMA時代からなんら変わることのない勝負師の姿そのものだった。

1993年デイトナ
ステディ・エディの真骨頂

 結局、ローソンはどんなライダーだったのだろう。80年代中盤から90年代初頭にかけて、4度の王座と31回の優勝を達成。同時期の誰よりも長く活躍し続け、手を緩めることなく手にしたその栄光は、無理せず手堅い走りで積み重ねられたものでは決してない。

 それでももし、ステディという言葉がふさわしいレースを挙げるとするなら、ロードレース最後の優勝となった1993年のデイトナ200マイルレースがそれに当たる。

 前年を最後にグランプリから引退したローソンは、バンス&ハインズヤマハからデイトナにスポット参戦することを表明。カワサキのスコット・ラッセルと序盤から激しいトップ争いを演じながら、勝つための戦略を張り巡らせていた。カギはピットストップの回数だ。この200マイルレースではタイヤ交換と給油のため通常2回のピットストップをする。

 ところが、ローソンが駆るYZFは、ベストな状態を維持するには3回のストップを必要としていたのだ。何事もなければ勝算は無かったものの、レース中にローソンはラッセルとの距離を巧みにコントロール。あらゆる場面で揺さぶりを掛けると、翻弄されたラッセルはタイヤをみるみる消耗し、予定外だった3回目のピットインを強いられることになった。結果、ラッセルはラストラップに逆転を許し、ローソンが1986年以来2度目のデイトナ制覇を成し遂げたのだった。

 最後の最後で見せたこの巧みさこそが“ステディ・エディ”の集大成と言える。自分のスタイルを貫き通し、少年時代と同じようにただひたすら勝利を目指したピュアさが、ローソンの変わらぬレーシングライフなのだ。

(初出:『ライディングスポーツ』2009年5月号)

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