見出し画像

#275 Luca Cadalora

ルカ・カダローラのグランプリキャリアは長い。1984年にデビューし、2000年に引退するまで、実に17シーズンにわたって走り続け、そのうちの13シーズンで少なくとも1度は表彰台に上がっている。

加えて言うなら、1986年は125ccクラスで、1991~1992年は250ccクラスでチャンピオンに輝き、以降は500ccクラスへ本格的に挑戦。1994年には世界ランキングを2位にまで押し上げている。そう、カダローラは、125ccクラス、250ccクラス、500ccクラスの全制覇という快挙に限りなく近づいたライダーでもあった。

カダローラが引退した翌年、同じイタリア人ライダー、バレンティーノ・ロッシが500ccクラス最後のシーズンを制し、それを達成したことはやや皮肉な結果だが、すべてのクラスで複数回の優勝を築いただけで充分な評価が与えられるべきだろう。

そんなカダローラは、フェラーリで有名なモデナの地に生まれ育ち、4輪のレーシングドライバーとして活躍した父を持つ。しかしながら、ライダーとしてのスタートは15歳になってからのもので、それも峠で友達とレースの真似事に興じるごく平凡なものだった。

ただし、その速さはやはり目を見張るものがあった。19歳で国内チャンピオンに輝くと、1984年にはグランプリフル参戦を開始している。1986年には名門ガレリに迎え入れられ、前年のチャンピオンであるファウスト・グレシーニと激しい争いを展開。時にチームオーダーを無視するほどの熾烈さを極めつつ、これを退け、125ccクラスの王座に就いた。

この活躍によって、1987年からは250ccクラスへステップアップ。同時に、ヤマハワークスの一角も担うことになった。10数台のワークスマシンがしのぎを削る中、カダローラは圧倒的な物量とパワーを誇るホンダ勢を相手に奮闘を続け、4シーズンで7勝をマークしている。どのワークスライダーにも平等に辛辣な態度をとったジョン・コシンスキーですら、カダローラの速さと巧みさを認めていたことは広く知られている。

とはいえ、一刻も早く250ccクラスのタイトルを手に入れたかったカダローラは1991年にホンダへ移籍すると、名チューナーであるアーブ・カネモトとタッグを組み、自身のポテンシャルを解き放った。そして、あっさりと(傍目にはそう見えた)2連覇を達成してみせたのだ。

500ccクラス挑戦の機が整ったと考えたカダローラは、コシンスキーと入れ替わるようにチームロバーツへ加入。グランプリデビューから11年目にして、最高峰クラスのシートをつかんだのである。

もっとも、500ccのレース自体は、1989年のイギリスGPで済ませている。この時、フレディ・スペンサーの代役としてスポットで出場すると、予選5番手のタイムをマークし、フロントロー(当時は5台だった)にマシンを並べるという鮮烈な印象を残した。

周囲は驚きと喜びで満ちていたものの、本人は「500でも操れることが分かっただけで満足だ。それよりも250のタイトルを優先する」とクールな態度を崩さなかった。常に慎重にことを進めるカダローラらしいエピソードのひとつと言える。

高いコーナリングスピードと深いバンク角を武器とする典型的なヨーロピアンスタイルゆえ、カダローラもかつては転倒を繰り返してきた。ただし、その中でも歩みを止めることなく成長し、3シーズンの125ccクラス時代、6シーズンの250ccクラス時代は、いずれも前年のランキングを上回り続けたのである。

円熟の走りは500ccクラスでもいかんなく発揮され、多くのライダーが転倒と、それによるケガに泣かされたこの時代にあって、着実に500ccのモンスターマシンをゴールへ導いた。とりわけ1993年から1996年の間は、毎シーズン2勝を達成。第一線でのキャリアが終わりに近づいた1997年ですら、表彰台に4度上がっている。

浮ついたところを見せない、物静かなキャラクターではあったが、コース上で披露するキレのいい走りはイタリアンらしさあふれるもの。最高峰クラスではしばしばミック・ドゥーハンを追い詰め、ファンを熱狂させた名ライダーのひとりである。

(初出:『ライディングスポーツ』2010年1月号/写真:本田技研工業)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?