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#153 Wayne Michael Gardner

 1980年、ダッチTTと呼ばれる伝統のオランダGPを見るために、オーストラリアから一人の若者が来ていた。それが当時20歳のワイン・ガードナーだ。この若者が多くの観客と少しだけ違っていたのは「いつかチャンピオンになりたい」という野心を隠さなかったことだろう。事実、3年連続でGP500のタイトルを手にしようとしていたケニー・ロバーツは、薄汚れた格好をしながらも「あなたのようになるためにはどうすればいい?」と真顔で聞いてきたガードナーのことを深く印象に刻んでいる。

 それから3年。1983年のダッチTTにもガードナーの姿があった。以前と違っていたのは観客としてではなく、今度はライダーとしてグリッドに立っていたことだ。この時23歳になっていたガードナーは、1980年当時と同じくやはり薄汚れた格好をしていたものの、とにかくグランプリライダーとしてキャリアをスタートさせたのだった。

 ただし、そのデビューは華々しさとは対極の意味で、あまりに衝撃的なものとなった。走行ラインがほんの少しずれていたなら、ワイン・ガードナーの名は“世界チャンピオン”どころか、“世界チャンピオンを轢き殺した男”として人々の記憶に刻まれていたかもしれない。

 しかし幸運にもそうはならなかった。不幸なアクシデントを乗り越え、20歳の頃と同じくレースに対する野心と情熱を保ち続けると、やがて一歩一歩タイトルへと近づいていったのである。

モリワキとの出会い
そしてイギリスへ
 
 ワイン・ガードナーは、1959年にオーストラリアの小さな町ウロンゴンで生まれ、スクラップ置き場で手に入れたゴーカートやミニバイクを乗り回す少年時代を過ごした。やがてモトクロスやダートトラック、そして意外にもトライアルも経験し、あらゆる2輪の感覚を身につけていく中、ロードレースでしか味わえないスピードに魅せられるとすぐに没頭。1979年にはオーストラリア最大のイベント“カストロール6時間耐久”を制して、その名を上げたのだ。

 しかしながら、オーストラリアではプロライダーの職業的地位がほとんど確立しておらず、もらえる賞金はごくわずか。しかも、レースのたびに仕事に穴を開けることが増えたため、勤めていた鉄工所からクビを宣告されたことがひとつに転機となった。

 レースで食べていくことを誓ったガードナーは、1980年の末にレース人生を大きく変える運命的な出会い果たす。それがモリワキエンジニアリングの森脇譲だ。欧米でもチューナーとしての名声を築きつつあった森脇は、自社のマシンを乗せるライダーを探すためにスワンシリーズ(オーストラリアの国内選手権)の最終戦を視察。そこで見出されたのがガードナーである。
 
 ただし、この出会いにはいくつかの偶然とエゴイスティックなまでのガードナーのハングリーさが無ければ成立しなかった。

 というのも、本来モリワキ入りする可能性が高いと評されていたライダーが最終戦の前のレースで転倒して骨折。それをテレビで見ていたガードナーは、すぐにそのチームオーナーに電話し、マシンを直して自分を乗せてくれるように頼んだのだ。オーナーはこの申し出を受け入れてくれたものの、その野望とは裏腹にガードナーのリザルトはごく平凡なものに終わり、森脇の印象に残ることも無かった。

 ところが、あきらめきれなかったガードナーは、オーナーに無断でマシンを持ち出すと出場予定になかったアンリミテッドクラス(GPマシンも出走可能なメインイベント)にもエントリー。そこで2位以下に大差をつけて優勝してしまったのである。

 それは偶然だった。レースの直前、雨になりそうなことを知ったガードナーは、マシンのハンデが無くなると直感。事実、レインコンディションの中で重く扱い難いCB900Fを巧みにコントロールしてみせ、森脇の興味を惹くことに成功したのだ。これがきっかけになり、ガードナーは正式にモリワキへ加入。それからグランプリにデビューを果たすまでの道のりは極めて順風なものとなった。

 1981年はイギリス選手権をベースにしながらデイトナや鈴鹿に参戦。特に鈴鹿での活躍は鮮烈で、8耐の前哨戦となった鈴鹿200kmでいきなり優勝したかと思えば、8耐ではそれまでのコースレコードを3秒近く上回る驚異的なコースレコードでポールポジションを獲得するなど、一躍その名を轟かせたのだ。
 
 1982年には、ホンダ・ブリテンへ移籍。引き続きイギリス選手権へ参戦しながら経験を積み、翌年はチャンピオン街道をひた走っていたのである。そんな中で実現したダッチTTへのスポット参戦は、チームがガードナーに用意したスペシャルボーナスのようなものだったが、このデビュー戦が引退レースにもなりかねないほどの悲劇を巻き起こしてしまったのである。

アクシデントを乗り越え
身につけたステディさ

 1983年6月25日、ダッチTTが開催されたアッセンはいつも以上に熱気を帯びていた。予選では4度目のタイトルを狙うロバーツがポールポジションを獲得。驚異のルーキー、フレディ・スペンサーが2位となり、以下、片山敬済、ランディ・マモラらが上位を形成していた。ホンダの市販レーサーRS500を駆るガードナーは3列目の10位という好位置を獲得し、グランプリライダーの仲間入りを果たした喜びをかみしめていたことだろう。

 スタートして3分足らず。オープニングラップを終えてグランドスタンドに戻ってきたガードナーは幸せの絶頂だったはずだ。なぜなら、プライベーターとしては望外の6位というポジションで走行し、目の前には前年のチャンピオンであるフランコ・ウンチーニ、後ろには地元オランダの英雄ジャック・ミドルブルグ、さらにはロバーツといった面々だ。舞い上がるな、という方が無理な話だろう。2周目の1コーナーに入る瞬間、ガードナーはミドルブルグとロバーツに抜かれる。その健闘は十分称えられるはずだったが、ここでアクシデントが発生した。
 
 6位で1コーナーに進入したウンチーニがマシンのコントロールを失いスリップダウンを喫すると、続くロバーツとミドルブルグはラインをインに取り、これを交わす。コースの中ほどに取り残されたウンチーニが這うようにしてアウト側のグラベルへ逃げようとしたところに、ガードナーがまともに突っ込んだのだ。
 
 その瞬間、ウンチーニのヘルメットは弾き飛ばされ、体はコマのように激しく回転。誰もが最悪の事態を考えたが、およそ40日間に渡って記憶を無くした以外は思いのほか軽傷で済んだのが不幸中の幸いだった。ガードナーも手首に骨折を負ったものの、こちらも大したケガではなかった。

 ガードナーを傷めつけたのは、ケガではなく誹謗中傷の声だ。ウンチーニは容姿端麗で物静かなイタリア人紳士。なによりチャンピオンだ。一方のガードナーは血気盛んなオーストラリア人で、しかもデビュー戦である。“身の程を知らない無謀な新人”に仕立て上げるのはごく簡単なことだったろう。

 しかしながら、ウンチーニが意識を回復したことを知ったガードナーは立ち直り、イギリスGPにも再びスポットで参戦。この時も予選9位で終えるなど高いパフォーマンスを発揮している。引退も覚悟していたアッセンでのアクシデントは、ガードナーに様々な教訓を与えた。以来、常に危険性を意識し、予選やフリーは100%の走りを披露するが決勝はマージンを残すことを学んだのだ。

 実際、このデビュー戦以来、ガードナーは50戦以上に渡って決勝での転倒を記録しておらず、ノーポイントに終わったレースはマシントラブルばかりだ。アグレッシブさが目立つガードナーのライディングも、こと決勝に関してはエディ・ローソン以上にステディな走りに徹していたと言える。

 ただし、予選やフリー走行は100%の走りをするというのもその言葉通りで、このときばかりは度々限界を越え、幾度となくマシンをコントロールすることを放棄しているが、完走のためのステップとしてチームは見逃してくれていたのだろう。

グランプリフル参戦開始
ホンダNo.1ライダーへ

 1984年になるとガードナーの心は完全にグランプリへと傾き、チームはイギリス選手権を優先することを条件に、スケジュールが許す限りグランプリへの出場も許可した。ほとんどが自費での参戦だったが、イギリスチャンピオンになっていたガードナーは、賞金や契約金ですでにいくらかの貯えができており、その費用を捻出することはそれほどむずかしいことではなかった。
 
 この年、ガードナーが最初に走ったグランプリは第2戦のイタリアだ。地元の英雄ウンチーニを傷つけた男の参戦をオーガナイザーが渋ったのかどうかは定かではないが、ガードナーの出走許可はレースウィークに入ってから下りるというドタバタがありながらも市販レーサーで快走。予選をスペンサーとローソンに次ぐ3位で終えると、決勝は4位でフィニッシュしてみせたのだ。この時、ガードナーから12秒ほど遅れて5位でゴールしたのが、速さを取り戻しつつあったウンチーニである。この瞬間から誰もガードナーのことを“無謀の新人”とは思わなくなっていた。

 その後、アッセン、ベルギー、イギリス、スウェーデンにも連続出場を果たすと、それぞれ5位、7位、6位、3位と安定したリザルトを残し、全12戦中わずか5戦の出場ながらランキングは7位にまで上昇した。特にスウェーデンではワークスマシンの貸与を受けて初の表彰台を経験した他、鈴鹿8耐では2度目のポールポジションを獲得するなど、ホンダ首脳陣へのアピールを盤石なものにしていったのである。
 
 優勝を狙える次世代のライダーになっていたガードナーは、翌シーズンに向けて多くのチームから積極的なアプローチを受けていたものの、ホンダ・ブリテンに残留。それまで支えてくれたチームスタッフとともにグランプリにフル参戦することを選んだのだ。

 1985年はそれほど目立つことは無かったが、これはスペンサーのGP500とGP250のダブルタイトルという快挙の陰で、すべてのライダーが“その他大勢”になってしまったからに過ぎない。その点さえ除けば、パワーに勝るワークスの4気筒勢を追いかけ、3気筒のNS500のポテンシャルを十分に引き出した末にランキング4位を獲得。その一方で、グランプリの合間を縫って参戦した日本やイギリス、オーストラリアのレースはすべて優勝を果たし(その中には鈴鹿8耐の初制覇も含まれる)、いつしか「ミスター100%」と呼ばれるようになったのである。

 続く1986年はいくつかの転機を迎えた。まず、スペンサーのチームメイトとしてHRCの一員となったこと。そして、開幕戦のスペインGPで幸先良く初優勝したことだ。肉体的(もしくは精神的)なトラブルを抱えたスペンサーが不在だったとはいえ、ガードナーの走りは明らかにそれまでと異なり、完全に一皮むけていた。アッセンで達成した2勝目もまた、その苦渋のデビューを知る観客とガードナー自身にとって感慨深いものだったはずだ。こうしてランキングは2位にまでアップ。ガードナー時代の幕開けがすぐそこまで迫っていた。

1987年、念願のチャンピオンへ
そして、その後

 ライダーとして気力が充実しつつあったガードナーに対し、復帰と離脱を繰り返すスペンサー。来たる1987年を前に、ホンダがどちらを優先するかは明らかだった。こうしてエースライダーの座についたガードナーは、NSRに自身の好みを盛り込む権利を得ると、ヤマハのローソンやマモラ、あるいはホンダ期待の新人と目されていたニール・マッケンジーらを退けて全15戦中7勝を達成。コースレコードを刻んだサーキットは10ヶ所にも及び、文句なしの圧勝でチャンピオンに輝いたのである。

 結局、ガードナーが頂点に君臨したのは、1987年だけである。その理由を精査することは難しいが、あえて言うなら手段を選ぶことなくモリワキへ加入した時のようなエゴイスティックさを持ち続けることができなかったからかもしれない。日本風に言えば義理人情に厚く、忠誠を尽くすタイプであり、プライベートがいくら忙殺されようともファンのための時間を惜しまず、いかなる時も誠意ある対応を貫いたガードナー。

 さすがに、ホンダが最大のライバルだったローソンと秘密裏に契約した時や新進気鋭のミック・ドゥーハンとのチーム内序列を巡っては、時に不満を露わにしたものの、それでもチームを離れることはなかった。過酷な鈴鹿8耐への出場要請にも応え続けるなど、チャンピオンシップ以外の様々な事象に翻弄されることが多くなった結果、再びタイトルを獲得するための集中力を持続させられなかったのかもしれない。そして、ライバルよりもケガとの闘いが多くなっていったのである。

 ハイパワー化の一途をたどっていたこの時代の2ストロークマシンはいとも簡単にライダーを振り落とし、4強、6強とも呼ばれた天才的なライダーたちをもってしても実際に全員が揃ってバトルを繰り広げたシーンは驚くほど少ない。いつも誰かが体にダメージを抱えていたと言ってもよく、同爆エンジンが開発され、エンジンが劇的に扱いやすくなった時、すでにガードナーの体はまともに走り続けられる状態にはなかった。

 一方で、そうした試練がガードナーのファイティングスピリッツを際立たせ、印象的なレースを幾度も演出している。
 
 1989年、初めて開催された母国グランプリでの優勝もさることながら、翌年には外れたカウリングを引きずったまま激走し、オーストラリアGP2連覇を達成した瞬間はその最たる例だろう。
 
 また、1992年の日本GPも凄まじかった。雨にすくわれ序盤に転倒。最後尾まで落ちたガードナーはボロボロになったNSRでとりつかれたような速さで6位まで追い上げ、しかしその瞬間再び転倒してしまうのだ。この時、不運にも衝撃を吸収するウレタンパッドがない場所にマシンもろとも潜り込んでしまったガードナーは足を骨折。結果的に、これが引退の引き金になってしまった。

 ただし、ガードナーはやはり義理固い。その失態を埋め合わせるかのように、夏の鈴鹿8耐では元気な姿を披露すると、そこで4度目の優勝を果たし、日本のファンを満足させてからグランプリへと戻っていったのだ。

 そんなガードナーにはもう一仕事残されていた。それが第二の故郷ともいうべきイギリスへの恩返しだ。引退会見の場にドニントンパークを選んだガードナーは、下積み時代を支えてくれたイギリスのファンに感謝を述べると、その翌日に開催された決勝では最後の力を振り絞るような激走で勝利を挙げ、自らの手で花道を飾ることに成功。多くのファンの涙を誘った。
 
 グランプリ通算18勝。

 しかし、その数字では計り知れないほど鮮烈な記憶を残し、涙もろく人情味溢れるチャンピオンは、10シーズンのグランプリ生活を終えたのである。

(初出:『ライディングスポーツ』2009年6月号)

●1983年 ダッチTT ガードナーのグランプリデビュー戦


●1992年 イギリスGP ガードナー最後の優勝


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