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#160 Ronald Haslam

 ロン・ハスラムがグランプリにフル参戦を開始したのは、1983年のことだ。「ロケット・ロン」と呼ばれるスタートダッシュの鋭さはこの時からすでに披露していたが、レース序盤の速さだけでなく、残したリザルトも充分な評価に値する。

 なぜなら、この年の開幕戦となった南アフリカGPと第2戦フランスGPでは連続して3位表彰台を獲得。バリー・シーンに次ぐイギリス人ヒーローの登場は広く歓迎され、近い将来のチャンピオン候補と見なされた。1979年にTT-F1、1980年にはF3で世界タイトルを獲得していたハスラムは、周囲にそう期待させるだけのキャリアも備えていたと言える。
 
 しかし、現実はそうならなかった。1990年まで続いたグランプリ生活の中、2位表彰台を1回、3位は8回経験したが、ついに優勝することはなかったのだ。

 スプリンターとして最も表彰台の頂点に近づいたのは、1984年の第11戦スウェーデンGPだ。ヤマハのエディ・ローソンにタイトルを獲らせまいとホンダ勢による包囲網がしかれ、NS500を駆るハスラムは自身初の、そして結果的に唯一のポールポジションを獲得してその期待に応えた。迎えた決勝でもローソンはもちろんのこと、チャンピオンの可能性に賭けるマモラやロッシュ、若さと勢いに勝るガードナーといったホンダのライダーを率いて、トップを快走したのだ。
 
 ところが中盤、ハスラムのマシンはオーバーヒートを起こし、リタイヤを余儀なくされてしまう。振り返れば、これがひとつのターニングポイントだったのかもしれない。なぜなら、この年ランキング5位を得ながら、シーズンオフには引退も噂されるほどで、翌1985年は自身最高位の2位を含め3度の表彰台を経験。ランキングも5位をキープしたにもかかわらず、ハスラムの評価はなぜかとぼしくなかった。

 ロケットスタートを決め、ホールショットを取れば取るほど、やがて順位を後退させるそのレース展開に、チームオーナーやスポンサーは希望を見出せなかったのかもしれない。

エルフの野望

 しかし、たとえ一瞬のきらめきであったとしてもトップを走るハスラムに夢を託すチームもあった。それがエルフだ。革新なのか奇抜なのか、先進なのか前衛なのか、とにかくそれまでのモーターサイクルとは大きくかけ離れたメカニズムを持ったエルフという名のマシンが登場したのは1978年のこと。以来、耐久レースを主戦場に活躍してきたが、1986年からいよいよグランプリに打って出ることとなり、そのライダーに選ばれたのがハスラムだったのである。

 4輪のF1技術が盛り込まれたその車体にはホンダNS用の3気筒エンジンが搭載され、エルフ3と呼ばれた。すでに4気筒エンジンが主力となっていたため、決して予選でフロントローを得ることはなかったものの、ハスラムは2~3列目、時にはそれ以降のグリッドからでもロケットスタートを決めてみせ、ファンをおおいに喜ばせた。この年、ランキング9位を獲得し、ハスラムとエルフというコンビネーションはグランプリの新風となったのだ。

 エルフ・プロジェクトは、1987年にはNSR500用エンジンを搭載するエルフ4へ、1988年にはエルフ5までバージョンアップされたが、マシン開発の意義を達成したと考えたチームは、ここでこのビッグチャレンジを終了させている。

 ハスラムはこのプロジェクトに参加した3シーズンの中、エルフのマシンでは一度も表彰台を経験していない(開発過程で乗ったNSR500では3位に2度入っている)。 それにもかかわらず、ハスラムは未来のチャンピオンと目された1983~85年よりも遥かに鮮烈な印象を与え、その闘いぶりにグランプリファンは夢を見た。
 
 マシン開発に賭けるその姿勢は、メーカー関係者からも高い評価を受けることとなり、1989年にはスズキへ、1990年にはカジバへと移籍しながらシュワンツやマモラらを支えたのである。いまに続く片持ち式スイングアームやモノコックによるフレーム構造の影には、ハスラムの献身があったことを忘れてはならない。

(初出:『ライディングスポーツ』2009年11月号/タイトル写真も本誌より)

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