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#307 ヨシムラの油冷が強かったころ

「予選があまりに無様だったからオヤジさんがカンカンに怒ってね。今すぐ荷物をまとめろ。帰るぞって本気で言うんだよ。いやもう、マジかと。今ならヤバイ人だよね」

オヤジさんとはヨシムラの創設者・吉村秀雄氏のことであり、その怒りの矢面に立たされていたのが当時チーフメカニックを務めていた浅川邦夫さんだ。時は1984年7月28日(土)、鈴鹿8耐の決勝前夜のことである。

リザルトを振り返ると決して無様ではなかった。グレーム・クロスビー&レン・ウィリングス組(12号車)が3番グリッド、池田直&三浦昇組(58号車)も7番グリッドを確保していたからだ。この年デビューした空冷のスズキGSX750ESは、圧倒的な物量で臨むホンダの水冷ファクトリーマシン勢の間に割って入り、傍目には優勝候補の一角と言ってよかった。

「オヤジさんが怒ったのは、俺たちが安全策を取ったから。4バルブ化された前年のGSX1000はヘッドにクラックが入るトラブルに見舞われ、この年の750にも同じ不安があった。だから圧縮比を下げて耐久性を持たせたんだけど、オヤジさんにしてみれば妥協も同然。結局、エンジン降ろせー、ヘッド開けろーって、ピットで面研。あり得ないよね」

結果的に、決勝では12号車がトップに躍り出て間もなく、58号車もほぼ同じタイミングでエンジンがブローしたものの、最後まで空冷の可能性を突き詰めたデータはスズキにもたらされ、翌1985年にデビューした初代油冷GSX-R750の糧になったのである。

ヨシムラが油冷で戦ったのは、1985年~1991年の7シーズンだ。その間、鈴鹿8耐では4度表彰台に登壇しながら、あと一歩が届かない。年々向上するパワーに比例して発熱量も増え、酷暑の中ではそれを抑えることが難しかったのだ。事実、オイルクーラーは最大で4個も装着され、軽量コンパクトという油冷の美点を削ぐほどだった。

しかし、俯瞰して見ればヨシムラの黄金期でもあった。全日本のTT-F1クラスは5度も制覇。同時期、世界耐久選手権でも全米選手権でもヨシムラのロゴが入った油冷マシンが数々の勝利を収め、王座獲得に貢献している。

「ヨシムラと油冷が強かったのは、結局のところ人でしょう。油冷にはメリットもデメリットもありましたが、少なくとも人の手が入る余地が残っていた。軽量化ひとつ取っても1円玉何枚分かで換算していたほどで、掛け値なしにグラム単位で追求したら結果に結びついた。オヤジさんがそういう覚悟でエンジンに接し、それを目の当たりにしたことの意味は大きい。時としてスペック以上のパワーやタイムが出たのは、オヤジさんと同じ時間を共有したひとりひとりの想いが積み重なったからじゃないかな。ひと言で言えば執念。あの頃はそれしかなかった」

気持ちが理屈を超えられた時代が存在し、だからこそ数々のドラマを生み、そこに携わる人を熱くさせてきた。油冷はその象徴である。

(初出:『ahead』2020年9月号/語り:浅川邦夫)

※タイトル画像は『情熱のロードレース』(八重洲出版)のコラムより


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