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#035 刃向かう

もうずいぶんと昔のことですけどね。一度だけ包丁を向けられたことがあります。冗談でも脅しでもなく、本気の勢いで。

命の危険を感じた時、人はどうするか。泣き、叫び、命乞いをし、そうでなければ全力で逃げるか、刃向かうか。なるほど、刃向かうって文字通りそういうことだったんだ。

さて僕がどうしたか。なにもできませんでした。しませんでした。腰が抜けて動けなかったわけではなく、尖った刃先を突きつけられた瞬間、(あぁ、これはしょうがないな)と思ったんです。覚悟が決まったというか、ごく素直にこれで終わりなんだなぁと。

星野道夫の著作『イニュニック 〔生命〕』の中に、こんな一節があります。

「追い詰められたカリブーが、もう逃げられないとわかった時、まるで死を受容するかのように諦めてしまうことがあるんだ。あいつらは自分の生命がひとつの繋ぎに過ぎないことを知っているような気がする」

あの時の感覚はたぶんそれにも似ていて、以来、何事にもあまり執着しなくなった気がします。どこを切り取っても、まあまあいい人生だったと振り返ることができます。そう思える日々をこれからも積み重ねていきたいとは思っていますが、これを書き終えた直後に、もしくはその途中で倒れてもそれはそれで致し方なし。

いつなにが起こるかはわからないので、とりあえず、おかずは一番好きなものから食べるようにしています。果たしてこれは執着でしょうか。よくわかりません。

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