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#031 随分と遠くへ

15年ほど前に買ったっきり、読んでいない本がある。沢木耕太郎の『246』だ。手に入れたことに満足して、そのまま本棚にいらっしゃる。もっとも、そういう本は他に20冊ばかりあって、ひとまとめにしている。そのうち読むつもりコーナーを一角に設け、待機して頂いているのだ。

ところが『246』だけは例外で、待機コーナーに入ることもなく、読了本と横並び。版型はB5と呼ばれるサイズで、つまりそこそこ目立つし場所も取るのに。

ずっとほったらかしにしているとそれはそれで馴染んでしまい、だから「あ、そういえば持ってたな」という気さえ起こらない。たまさか目に入ることがあっても壁紙を眺めているのも同然で、そうやって15年が経過した。

数年前に引っ越しをした時は自分で手に取り、紐で縛るか段ボールに入れるかしたはずだがまったく記憶にない。紐をほどくか段ボールから取り出すかして、また本棚に並べたのも自分のはずだが、やはり記憶にない。捨てられたり、古本屋に売られたりすることもなく、ずっとそこにいらっしゃる。

一体全体どういう風の吹き回しだったのか、今日その『246』を引っ張りだしてみた。なんとなくとしか言いようがなく、パラパラとめくっても「さぁ読もう」という気にはならなかったのだけど、一葉の写真が挿絵のように挟まっているのを見つけた。

おやまぁ、こんにちは。それは15年前の娘と自分。眠たいのか、泣いた後なのか、僕の胸元にしがみつき、肩越しにカメラを見つめている。カメラを構えていたのは妻だ。

なんでそんなものを挟んだのかもさっぱり記憶にない。しおりの代わりにでもするつもりだったのだろうか。ともかく2歳の娘がそこにいた。

その頃の僕と妻は30代。毎日大海の中にいて、どこを目指せばいいのかも分からないまま、夢中で手足をバタつかせながら一心不乱に漕いでいた。そんな僕らは今や50歳を過ぎ、娘は今夏で18歳を迎える。

どうにもならないほど、遠くまで流されてきてしまった。いいのか悪いのか、そのどちらでもないのか。よく分からないけれど、もと居た陸地なんかとっくに見えなくなっていて、漕いできた航跡は跡形もない。さりとてこれからどこへ向かっていいのやら。随分と歳月が流れたことだけは分かる。なんだかぽつねんとしている。


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